6.22 かにの日
こんな気持ちになるのなら、まだ手放さなければよかった。
三日前に弟ガニを見送ったカニは、ゆるい流れの中で揺れる水草の絶え間ない繰り返しを眺めながらそう思った。
「今頃どこにいるのだろう。腹は空かせていないだろうか。悪い奴につかまってはいないだろうか」
心配でたまらず、食事も喉を通らないかにである。
このカニの兄弟は、気付いた時から二匹ぼっちであった。
別の兄弟たちは先に生まれてどこかへ流れて行ったのか、親ガニたちとやむをえず兄弟が住処とする岩場から立ち去ったのか。
先に卵から生まれた兄は、足下で寄り添うように揺れる一つの卵をとても愛おしく思い、それを守った。
やがて生まれた弟は兄っ子で、どこへ行くにも着いてきて、何でも真似をしたものだ。
大人になった二匹は別れの時を感じるようになった。生物の本能がそうさせるのであろうか。
それぞれに住処を持ち、新しい家族を捜す時がきたのだ。
そして、弟は兄に住処を譲って去った。
いつか互いの家族をつれて会おうと約束し、兄にとっては拍子抜けするほどあっさりと笑顔で去っていった。
ついさっきまでずっと共にいた住処は、弟がいないだけでつまらなく伽藍と広い空間になった。
「置いていかれるほうが辛いものだなあ」
カニは口からぷかぷかと銀色に光る泡をいくつか吐き出した。
渦模様の水面にあがっていく泡は、寝付けない夜に弟がよくねだった遊びであった。
兄弟二人で心細くないわけがなかった。しかしもう心細くないほどに、二匹は大きくなった。
「いつでも戻ってこい。おれはずっとここで待ってる」
いつしか高く昇った月の明かりに照らされて、カニは住処の奥へと潜っていった。
実は弟のカニはとても近くの大きな岩と柔らかな草のある対岸にいたのだが、兄はまだそれを知らない。
二匹が再会する日は、近く訪れることだろう。
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