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5.19 セメントの日

セメントで固められた真四角の部屋は、五月だというのに壁から滲むような冷たさが染み出している。

蛍光管一本に照らされたがらんとした灰色の部屋の中。
男の前にあるのは灰色の床に落ちた二本の鍵だけだった。

視線を前に転じると、正面の壁に二つのドアが並んでいる。

ひとつ深呼吸をして、泥で汚れたスニーカーでまず右側のドアに近づく。

男はその泥がどこの泥なのか検討もつかなかった。

男が前に立ったのは、無骨な金属製のドアだ。
塗装した赤いペンキがところどころ剥げて一部が錆びている。

汚れた円柱型のドアノブに手をかけ、鍵がかかって開かないことを確かめる。

上から観察すると、下の方に新聞受けのような薄い窓を見つけたので、男は向こうを覗こうと屈んで中を見てみた。

「っ!っ……っ!」

その隙間から。
暗闇の中から漂うひどく生臭い悪臭が鼻を突いて、男は思わず咽せて床に転げた。

目からは涙が溢れて、汗にまみれた白いシャツの肩口で乱暴にぬぐう。

男はその汗をどこでかいたのか検討もつかなかった。

「ひでえな…」

立ち上がって、もう一つのドアに近づく。

そちらのドアはつるりと無機質な白いプラスチックで出来ていた。

細長い、これまたプラスチックの銀色のドアノブを下ろしてみたが、やはり鍵がかかっており開かない。

そのドアには、観察するまでもなく隙間も窓もついていない。
まるで今日取り付けたばかりの新品のような、剥きたてのゆで卵のような隙のなさである。

この部屋に存在する鍵は二つ。

錆びの浮いた鉄の鍵と、プラスチックのおもちゃのような鍵。

どちらを選び取るかで男は悩んでいた。

プラスチックのドアの方は、あまりにも清潔感が漂いすぎているため、罠のような気がしてしまう。

しかし悪臭の元がもしもあのドアの先に転がっているかもしれぬと思うと、金属製のドアを選ぶ勇気もない。

しばらく冷たいセメントの壁にもたれて男は考えた。

ドアを見比べても、沈黙するばかりで何も答えない。

「いや、こっちの方がどう考えても安全だろうよ」

そう言って男は、まだ傷ひとつないプラスチックの鍵を取った。

鍵穴は何の抵抗もなく、当たり前のようにそのプラスチックの鍵を受け入れた。

深呼吸をして、時計回りに一度ひねる。

カチョンッ…

拍子抜けするほど軽い音を立てて、その鍵は開いた。

一歩を踏み出そうとして、男はスニーカーの靴底を軽く滑らせた。

「あっ、ぶね…」

足元を見ると、クリーンな白いプラスチックのドアの隙間から、大量の赤い液体が音もなく流れ出してきている。

「何なんだよ、なんなんだよこれ!?」

男は後ずさったが、鉄臭いその液体は見る間に広がり、近づいてくる。

「やばい。全然止まらねえじゃねえか!やばい!何だよ気持ち悪いっ」

反対の壁際まで逃げたものの、赤い波は男の足先まで到達し、泥の色を赤く染めた。
止まらない液体に逃げられぬことを悟った男は、今度は液体の吹き出すドアへと走り出した。

この部屋にいるよりはマシだと、銀色の細長いドアノブに手をかける。

「何で…何でだよっ」

プラスチックのドアノブは根元からポキリと折れて、つるりとしたドアはただ壁の一部となった。

どこにも取っ掛かりの無いそのドアは、開けられることを完全に拒否している。

もう一つの鍵の存在を思い出した男は、もう足首まで血のような液体に浸かった床に這いつくばって手探りでそれを探した。

白いシャツも顔も血飛沫を浴びたように真っ赤に染まっていったが、気にする余裕はなかった。

「無い…ない…っ」

焦って脂汗を額にびっしり浮かべた男のことを、金属製のドアが静かに見下ろしている。

どちらが正解ということもなく、二つのドアは沈黙を守り続けている。

5.19 セメントの日

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