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5.27 小松菜の日
八百屋で買った小松菜に虫がついていたので、御堂は迷わずそれを庭に放った。
残りの小松菜は切って夕食の八宝菜の材料にした。
歯ごたえの良い小松菜は、身体に良いものを食べている気がして、用事さえなければ年中家の中に閉じこもっている御堂の罪悪感を少し軽くした。
その夜、網戸越しの風を感じながら布団で寝ていた時だ。
寒くなってきたようで、身震いをして目が覚めた。
「あー。まだ開け放して寝るには早かったか」
布団のなかから手を伸ばしても届かず、御堂は仕方なく起き上がって戸を閉めに立った。
「ごめんくださいな」
小さな声が網戸の向こう、庭に出るためのサンダルのあたりから聞こえた。
御堂は凍りついた。
今まで長くこの平家に住んでいたが、幽霊に会ったことはなかった。
幽霊のことを考えたこともなかった。
あまりの恐怖から聞こえないふりをして戸を閉めようとすると、また同じ場所から声がする。
「ああ、待ってください。少しだけ話しを」
目をぎゅっとつぶっても、恐怖が逃げることはないのに、御堂はただ両のまぶたで視界を閉ざして顔を背けた。
「怖がらないで。私は虫です。小松菜をありがとう」
虫。小松菜。
どうやら幽霊ではなく、もっとファンシー寄りな展開のようだが、なかなか目を開けられない。
ファンシー展開と見せかけて安心させた上のホラーかもしれない。
目を開けたら目の前に足の無い女が立っているかもしれず、もっと悪ければ生首かもしれない。
じっと固まってやり過ごしていると、辺りを包む虫の声に囲まれた。
リーリーリーリーリー
「怖くない、怖くない…」
呪文のように呟きながら薄目を開けると、ぼんやりとした月明かりに照らされた庭は見慣れたいつもの様子だった。
「何だったんだ、一体」
まだ警戒は解かずに、速まった鼓動のままゆっくりとサンダルのあたりに目線だけを映す。
汚れたサンダルの隣には、昼間に打ち捨てた小松菜の葉一枚がしなびて転がっていた。
「本当に虫…だとしても、虫が喋っても怖い」
御堂は今度こそしっかりと戸を閉めて、布団に潜って小さく丸まった。
そして今度選ぶときはよく虫のいないのを確認してから買おうと固く心に誓ったのだった。
御堂の庭はその日、月明かりが消えるまで虫の声に包まれていた。