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3.30 マフィアの日
マフィアと聞き違えた妹が、山盛りのマフィンを買ってきた。
「何だこれ」
俺は、ご丁寧にも一つ一つを透明な袋でラッピングされたマフィンをダイニングテーブルに並べながら眉間に皺を寄せた。
「何って、マフィンだよ。あっ、煙草!灰落ちる!」
妹は元ソフトボール部で培った無駄なスナップをきかせて俺の目の前に空き缶を放った。
俺は妹の部屋に押しかけた手間、渋々大人しくコーラの空き缶に長く伸びた灰を落とした。
「それね、近所に新しくできたマフィン屋さんのなの。兄貴がマフィン好きだなんて知らなかったけど、兄貴に会うのも久しぶりだったから嬉しくてさ、全種類買ってきた」
妹は狭いキッチンで珈琲を淹れてくれている。
そういえば、小さい頃から妹はずっと俺のことが好きだった。
変な意味ではなく、兄としてとても好いてくれていた。
「いや、マフィンじゃなくてよ…」
「えー?なにー?」
「何でもねーよ!」
マフィンには一つずつに小さなシールが貼ってあった。
チョコバナナ、ストロベリーチーズケーキ、きなこ小豆、ブルーベリークッキー、コーヒーバニラ、抹茶ココア、エトセトラ。
もはや俺には理解不能な領域の組み合わせも多々ある。
「はい、出来たよー。うっわ、すごい綺麗に並べてるじゃん。やる気満々だねー!兄貴好きなの食べて良いよ!」
妹はまくしたてるようにやんやと言いながら、テーブルの上にマグカップを二つ置いた。
妹はこんなにおしゃべりだったろうかと俺は内心首を傾げていた。
「別に、何でもいい」
とはいいつつ、一番無難そうなきなこ小豆を手に取る。それを見た妹は嬉しそうだ。
「やっぱり兄貴はそれかー。日本が恋しかった?兄貴、カキ氷もいつもきなこ小豆だったよね」
そう言いながら、妹は棚から出したチーズクラッカーを齧り出した。
「おい、お前は食べないのか」
妹は変な間を取ってから、あーとかえーとか言いながら頭を掻いている。
明らかに俺一人で食べきれる量では無い。
「何だよ、気持ち悪いな」
妹はちらりと俺を見て、目を逸らした。
「実はさ、ガキがいるんだよ」
「は?」
聞き返しても、言葉が返ってくることなく、チーズクラッカーを齧りながら妹は自分の腹のあたりを気にしている。
「いやいや、え?お前…母親になんの?!」
「兄貴、声でかいよ!」
妹は耳まで真っ赤にして吠えた。
俺ははっと気がついてすぐに指先で煙を出す煙草をもみ消した。
「早く言えよ!おま、煙草吸っちまったじゃねえかよ!っていうかマフィン食えないのと何の関係が?」
俺の頭は混乱していた。久しぶりに会うと、俺の男勝りな可愛い妹は妊婦になっていた。
「いや、良いよそんな。兄貴ヘビースモーカーじゃん。ちょっと体重増え気味だからマフィンは遠慮してんの!以上!」
妹は話を打ち切るように語尾を強くした。
俺は小豆きなこのマフィンを齧りながら、とりあえず大人しくなった。
珈琲をすすり、確か妊婦にカフェインは駄目だった気がすると急いで妹のマグカップに目を走らせると、何だか色の薄いお茶のようなものが入っていたので安心する。
「…とりあえず、おめでとう?」
俺がむにゃむにゃとそう言うと、妹は大きな口でにっこりと笑った。
山盛りのマフィンを意味もなく手で撫でながら、兄馬鹿かもしれないけれど、きっと妹は良い母親になるんだろうなあと心の中で独りごちた。
俺は真っ直ぐ生きてこられなかったけど、妹は日本の片隅で着々と日々をこなしていたのだ。
俺はおじさんになるのか。出産祝いはいくら包めばいいのだろうか。後でネットで調べようと思いながら、とりあえず目の前で頬を赤らめて幸せそうに笑う妹を眺めながら、俺もほのかに幸せな気持ちが伝染した。
人生のうちであと何回遭遇するかは不明だが、マフィンを食べるたびにきっとこの日のことを思い出すことだろうと思う。