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6.16 和菓子の日

ジムの帰りに、受付の筋肉質なお兄さんが私の会員証を返しながらこう言った。
「今度は来る前に何かお腹に入れてきた方がいいですよ。相原さん、お腹空いてたでしょう。トレーニングの時力入らなくて辛そうでしたから」
鍛えている人特有の満面の笑みが、有無を言わせない圧力に感じた。
「何を食べてくればいいんでしょうか。仕事場から直行してくるので、おにぎりとかバナナとかはちょっと難しいんですけど・・・」
控えめに現状を伝える。
風呂上がりのすっぴんを見られる時間が長くなってしまったことが気になる。
細くて凹凸の無い棒のような身体を包む麻のワンピースがすかすかとしていて居心地が悪い。
「そうですね。和菓子がいいです。どらやきとか大福とか羊羹とか」
「和菓子ですね、分かりました。善処します。お疲れさまでした」
私は肩に食い込むジムバッグの紐を握りしめて頭を下げると早足でジムを後にした。

歩いて帰る最中、逃げ帰ってしまったことが気になって暗い気持ちに襲われた。
友達もおらず、仕事以外の時間に暇を持て余しすぎて始めたジムだった。
デスク仕事で体力もなく病弱な私を変えたくて入会したものの、一ヶ月も経たずに挫折しそうになっている自分がいる。
「そもそも、知らない人に囲まれている空間が耐えられない。器具が重い。仕事帰りに行くと疲れる」
そもそも和菓子を買えるような店は近くにない。出勤前には閉まっているし、それを買いに行くためだけに休みをつぶすのも嫌だ。休みの日は出来るだけ家から出ずに過ごしたいと思っている。休みに寝てばかりいても罪悪感を持たないためのジムでもあるのに、本末転倒である。
「インターネット…受け取りが無理だ」

平日の受け取りは不可能に近く、再配達を週末にしたら届くまで三時間くらいそわそわしていなければならない。耐えられない。
とぼとぼと足を引きずりながら夜道を歩く。
そして家の近くのコンビニエンスストアに常夜灯を求める虫のように吸い寄せられていった。
「あ」
牛乳と菓子パンを手に取って店内を徘徊していた私の目に飛び込んできたのは、少し高い棚に並んだ和菓子の陳列棚であった。
どらやき、大福、羊羹。全てが完璧に揃っていて、あの満面の笑みのトレーナーを思い出す。
「ありました…先生」
私はとりあえず裏面に表記されている賞味期限を確認してから一つずつ手に取った。
羊羹なんかは小ぶりで会社で食べても目立たなそうであり、なおかつ食べ忘れても賞味期限が長い。会社員でありずぼら人間の私にぴったりのように思われた。
「ありがとうございましたー」
明るい女性の店員に見送られて店を出た。

「今まで何で気がつかなかったんだろう」
気になったものが突然目の前に現れる現象は、何かの名前がついているのだろうか。
きっとそれまで眼中になかっただけで、今までも和菓子はずっと私の生活のそばにいたのだ。
狐につままれたような気持ちになりながら、腹が鳴るのでどらやきを食べながら帰った。

甘みのある粒小豆とやわらかくしっとりとしながらも蜂蜜の風味が鼻に抜ける皮のハーモニーを楽しみながら、私は大人になって初めての鼻歌を歌いながら夜の住宅街を歩いた。

空では丸い月が煌々と輝いていて、こんな小さなことでも私は少しだけ生まれ変わったような気がして嬉しくなったのだった。

6.16 和菓子の日
#小説 #和菓子の日 #和菓子 #ジム #JAM365 #日めくりノベル

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