『言の葉の庭』鑑賞録-覚書-
※覚書のため、論理がごちゃごちゃで読みづらい文章になっています。
私の飛びぬけて最もお気に入りの作品。新海誠監督『言の葉の庭』はこれまでに、数えたことはないが、おそらく10回以上は鑑賞しているのではないか、と思われるほど繰り返し見て楽しんでいる。
青年期独特の不安感
というのも、この映画にはアイデンティティが確立されていない青年期独特の得体の知れない不安感が、何とも言えない情感で描かれるからだ。どこへ向かうべきか、そもそもここはどこなのか、私は誰なのか、その漠然とした問いに対する焦燥感。
この不安感は当然、孝雄自身にも認識されていて、それを克服しようとする。それは例えば「あの人(=雪野)に会いたいとも思うけれど、その気持ちを抱え込んでいるだけでは、きっといつまでもガキのままだ。」という言葉に滲み出る。
この言葉は力強い。というのも、自らの不安感を、単純に「恋愛」に棚上げして誤魔化そうとしていないからだ。もし、なんのひねりもなく「恋愛」に転換してしまえば虚無にしかならない。
染み出る日本的抒情
よく新海誠作品は『君の名は』や『天気の子』に代表されるように、美しいグラフィックで特に評価を受けている。それは『言の葉の庭』から本格的に始まったことであるが、しかし、単にグラフィックが美麗なだけではない。本作品において、色味や空気感、ぼかし、構図が映画全体に柔らかさをもたらしている。これは、映画の主題の一つでもある「古典」(万葉集)につながる繊細さを映像でもって表現している。私は、この映像による日本的抒情の醸成に惹かれたのだ。
都会のモチーフ
単に古典に主題があるのみならず、現代社会、「都会」にも主題が置かれている。それは舞台が東京であること、都会的空気、根無し草的他者性などにある。
「よみ人知らず」が繋げる世界
この東京の「出自も人となりも誰か分からない」(=根無し草的他者性)ということが、しかし、孝雄と雪野を、特定の場所(=新宿御苑)を介して現在において結びつける。そこでは過去のあらゆることが看過され、いわばゼロ状態で人間が結びつく。つまり、孝雄は雪野が誰か知らないし、雪野は孝雄が誰かを知らない。その知らないことによって、関係が築かれる。
そこに人間の理想の在り方があるのではないか。男性だからこう、とか、女性だからこう、とかを超えて中立になり、生き生きと人間性を発揮している。「知らないこと」。ある種の他人感・匿名性そのものである。
古典と都会のアマルガム
これによって、映画全体に万葉集-雨-都会(過去-自然-現在)の連関をなす。万葉集=「よみ人知らず」、雨=人知の及ばぬところ、都会=根無し草的他者性。
映像表現としては、「尖塔(高層ビル)」・「航空障害灯」・「カラス」がその役割を果たすのではないかと思う。
<いま、ここ>のアクチュアリティ
新海誠は、「世界」を主題にすることが多い。もちろん、『言の葉の庭』以降の作品でも以前の作品でもそうなっている。
「まるで世界の秘密そのものみたいに、彼女は見える」
「世界の秘密」とは哲学的問いでもありつつ、アイデンティティ未確立時の青年期の問いでもある。こういう「世界の秘密」との出会いは孝雄-雪野の<いま・ここ>的な出会いに照応される。
人間が生き生きとするときというのは、過去のしがらみにとらわれていない状況の現在性(アクチュアリティ)の中で発揮されるのではないだろうか。
この<いま・ここ>的状況では、何か固有なアイデンティティは必要とされない。その場にいるから、ただそれだけでいい。無条件の肯定である。こういう場こそ、第三の場所といえる。
恋愛ではなく、恋であること
本作品は「恋」も主題の一つとなっている。それは「恋愛」ではない。「恋」である。
もし恋愛というものを、恋と愛の中間地点と定義するならば、つまり、恋→恋愛→愛という順番に進展していくものだとするならば、この作品では恋が主題となっているのである。
恋は、その本質から言って、成就されることはない。不可能なうちにあるのである。なぜか?恋は憧れにも似ている。相手を人間として魅力を感じるのだ。手に届かないものとして。(手が届いたとき、それは恋愛になる。そして性質がまるっきり変わってしまう。)
恋が継続されるためには、何らかの障害がなければならない。遠距離恋愛とか、両親に反対されているとか、織姫と彦星の天の川とか、そういったものである。
本作品においては、年齢差(孝雄と雪野は12歳差)と社会・環境(雪野は学校での問題によって引っ越す)がそれであろう。恋が恋でありつづけるためには(恋愛に)成就されてはならないのである。
だから、最後のシーンで雪野が孝雄の告白を流したのは、恋であるための条件であった。
しかし突き放すだけでは恋は消滅してしまう。近すぎず遠すぎずの距離感が良いのだ。だから、心では引き合いながら障害によって近づけないという状況こそ恋にふさわしい。
そんな恋のどこがいいのか?恋愛→愛に発展させたらいいじゃないか?ごもっともであるが、しかし、恋であるときに、思うに相手を人間としてみるのではないだろうか。恋愛や愛(=結婚)となると、パートナーを物象化してしまう嫌いがある。自分のものだ、自分のものだ、というように。真の恋はそのようなものではなく、憧れに近い、不可避的な引力であって、超意思的なもの(人の意思でどうこうできるようなものではない)。もし、自分のものにしたい、と思っているならば、それは恋愛に近いものであろう。あるいは恋ではない。
そんな「恋」を、丁寧に丹念に主題として(恋愛に発展・逸脱させずにそのままの状態で)背負っているこの作品に、私は人間の理想をみた。
「歩く練習をしていたのは俺も同じだと、今は思う。いつかもっと、もっと遠くまで歩けるようになったら、会いに行こう。」(孝雄)
恋は相手の状況を「知らないこと」に大本を持つ点で、愛と違って無責任ともいえるかもしれない。でもそこに救いがあるならば、それもそれでいいのではないだろうか?
「『あの場所』で私、あなたに救われてたの。」(雪野)
なのである。
恋は人間を人間たらしめるものである。こういう救いという部分、生き生きとした人間性の発揮という点、自己を見つめなおし歩いていく態度など、これらは恋から出発している。
最後に、恋に関連して、私が恋している三島由紀夫から一言引用します。
「性や愛に関する事柄は、結局百万巻の書物によるよりも、一人の人間から学ぶことが多いのです。われわれの異性に関する知識は異性のことを書いたたくさんの書物や映画よりも、たった一人の異性から学ぶことが多いのです。ことに青年にとって、異性を学ぶということは、人生を学ぶということと同じことを意味しております。」(三島由紀夫)