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原発事故から科学・政治・哲学まで
3.11・FUKUSHIMA・原発忌の今日である。
一年はただ繰り返すものではなく、その日が来る、その都度思い出して掘り返さなければならない。過去に埋もれたものを現在にまで、死者蘇生を施さなければならない。
そういうわけで、今回はそれに関連して、
『解放されたゴーレム ー科学技術の不確実性についてー』(H.コリンズ/T.ピンチ)
で取り上げられている、「チェルノブイリとカンブリア地方の牧羊農夫たち」を紹介する。
35年前-チェルノブイリ
いまから35年前、1986年ソビエト連邦でチェルノブイリ原子力発電所がその炉心融解・爆発・火災によって国境を越えて大きな影響をもたらした。(35年前といえば、「マリオ」(1985年)のプレミアだ(!))
ピーターラビットと死の雨
その影響は、ソ連やその周辺国だけにとどまらず、なんとヨーロッパ大陸を超えてイギリス・カンブリア高原までやってきた。あの「ピーターラビット」の美しき湖水地方といえば思い起こす人もいるだろう。
その高原地帯に、「死の灰」ならぬ「死の雨」が降りそそいだわけだ。しかもかなりの降雨量だったそうだ。
政府「大丈夫だ、問題ない」
例の如く、福島原発事故のときも同様だったが、政府は隠ぺい或いは沈静化しようとする。
曰く、「健康には何の問題もない」らしい
手のひら返し
もちろん、その後の調査によって、政府十八番の手のひら返し。
カンブリア高原の牧羊は規制・制限がかかることになる。
なぜこうも手のひら返しをするのか?
お政府がご発表するときは、一応「科学専門家」様のご意見を賜って、そうしてそれを拝借して「問題はない」と仰って頂くわけだ。
このようなことは、「科学専門家」様が誤った情報を言ったから悪いのか?
政府がとりあえず国民を沈静化させようとする魂胆が悪いのか?
誤謬よりも態度の問題性
実際、人間だから、いくら科学者といえども間違える。だがそもそもそれ自体が悪いというのではなく、科学的決定を下す際の誤りを認めない傲慢な態度に問題があるのだ。
非専門の専門領域・ローカルな専門知識
専門的知識を背骨に持っている人間はそれに従って、背骨を持っていない人間の意見を実質的に無視・過小評価する。
これは、カンブリア高原の例では、牧羊やそのローカルな土地に関する専門家である牧羊農夫たちの意見を、単に科学的資格を持っていないからといって無視していた。
例えば、高原地帯では、仮に雨が一様に降り注いだとしても、水たまりや小川、地形の関係で、放射能物質が蓄積される量は一様ではないということ、羊の放射線量を測定するときに、正しい部位にセットしなければ羊が跳びまわるために正しい測定結果が出てこないということ、などである。科学者はこうしたローカルな専門知識を無視した。
普遍な科学の妄信
また、その科学的専門知識を普遍のものとみなし、すべての状況に応用できると、根底の部分で思いなしている。もちろん、形式的には、「状況にあった科学を」とはいうものの、実際の行動は、上のカンブリア高原やフクシマで例証されている。
政治的な科学(セラフィールドの隠ぺい)
ところで実は、チェルノブイリ以前に、イギリス・カンブリア地方、セラフィールドで1957年に同様の原発事故が起きている。あまり注目されていないのは、その事故が秘密裏に処理され、十分なデータが収集されなかったためでもある。
そのセラフィールド周辺で放射能の健康面などの影響(例えばその周辺地域での異常な白血病罹患者数など)が顕著にみられたものの、政府はしらを切っていた。
科学でも脱政治化が出来ると思っているのか?
ちょうどそのタイミングでチェルノブイリ事故がやってきた。これはすり替えるのに好適であるので、政府はまた一変して、こういった放射能はすべてチェルノブイリだと主張し始めたのである。もちろん、そこには一応「科学専門家」様のご意見(例えば、放射性物質の半減期云々など)が添えられているわけだが。
哲学・科学の傲慢
私は哲学を学ぶ未熟児であるものの、今回の科学の話は興味深い。
なぜ、科学がこのような傲慢な態度をとるのか、政治利用されてしまうのか、といえば、これは「哲学」の学問的性質に由来しているのではないかと思われてきてしまう。
いわゆる「科学」は、古代ギリシアにおいては「知を愛す」(フィロソフィア)ということで、哲学の領域に属していた。この哲学は、つまり、世界を「普遍的」に説明しようとする態度でもある。
この態度は、上に見たように、傲慢な態度にも接続しうる。
ゴーレム哲学
だからこそ、科学だけでなく、すべての学問(哲学)にも当てはまることであるが、それが「ゴーレム」であることを認識しておかなければならない。
つまり、過大評価してもいけないし、過小評価もしてはならず、常にそれが危険性をもつものであり、有用性をもつものでもあるということ。
疑うことを忘れた哲学
正しく恐れるということ。正しく扱うということ。
常に地盤を疑ってみること。時折、哲学もこれを忘れてしまっている気がするから。