「自分」とは。超感覚的で多幸感に溢れている一瞬の出来事を眺めている感覚。
「自分」を語るとき、「自分とは脳である」と考えていました。やや複雑なのですが、これはあくまで感覚の話です。つまり、今見えているもの、聞こえる音、考えること、その全てを処理している脳こそが自分であり、それ以外の肢体は、自分のおまけであるかのような、あくまでそんな感覚を持っていました。
あくまで感覚の話です。自分の手を見れば、それは自分の手であるって思いますし、自分のことを鏡で見たら自分だと分かります。「自分とは」という文脈におけるアイデンティを考える場合には、身体ではなく、脳こそが自分だと思っていたということです。
それが、2023年の初夏頃から、ものすごい変化したことがありました。自分という存在、物理的な存在の全てがこの世界で生きている、という感覚を得たんです。感覚的なので難しいんですが、今まで世界は自分の脳を中心として活動を続けていました。しかしその瞬間から、自分は世界の一部であるという、ある種の超俯瞰、超自我、メタ視野的な感覚がブワっと身体に降ってきた感じです。
自分が世界にいる姿を見ている「自分」がいて、その「自分」も自分であるという感覚です。
自分のことが許せずに何度か死のうと思っていた
今回、なんでふとこんな訳のわからない、胡散臭い宗教みたいなことを書いたのかと言いますと、私まったくの無宗教なんですけど、ちなみに。
自分とはなんなのか、という話と、自分は価値がない人間なんじゃないかという自己否定と、突き詰めるところ、人間の最も深い悩みって結局自分なんじゃないかと思いまして、私もそうでしたので、なぜ今こんなに多幸感に溢れるようになったのかをメモしておきたかったという、それだけです。
で、私は人生で複数回にわたり、本気で死のうと思っていました。なんでかというと、いろいろあります。
自分は本当はこうなりたかった
自分は本当はこう生きたかった
だいたい、これです。で、なんで自分がそうなりたいのかというと、それは特に自分が真からそうなりたいのではなくて、分かりやすくステータスであったり、自分にはないものを持っている人を見つけたりとか、おおよそ他人と自分を見比べた時に、「なんで自分は」ってなったりする傾向があると思っています。
ちなみに私は、大人になってから「ちゃんと大学に行けばよかった」と何度も思いました。なんでかというと、同僚がみんなちゃんとした大学を卒業しており、話していて優秀だし、自分にはない「学歴」を持っているからです。
よく言われます。
そう、どうでもいいんですよ、今となれば。でも当時の自分的にはそれが許せなかった。他の人ができたことをできなかった自分が許せなかった。
あと他にもあります。自分が好きだった女の子が、ちゃんとした学歴を持っており、ちゃんとした学歴のある彼氏がいる。これは更に自分を許せなくなるきっかけになりました。
自分が持っていないものを、自分が欲しいなと思うものを普通に持っている人がいて、何に恨みをぶつければいいのやら。明確に家庭の事情であったり、何かあればそれにぶつけるのでしょうが、私の場合、ただ単に当時自分がそれを望んでいなかったから、ですので、過去の自分を許せなくなってしまうわけです。
後になって自分でもそんな悩みくだらないなとか思うんですが、当時の自分からしてみれば死活問題だったわけです。だってこれ定数ですからね。
定数と変数というのがあって、だいたい、取り返しのつかない落ち込み様を見せる人って、定数に対してもがいているんですよね。
定数と変数
定数:自分じゃどうにもならんこと
変数:自分でどうにかできること
過去って、自分じゃどうにもならんことじゃないですか。それをどうにかしたくて思い悩んでいるパターンですね。
今をどう変えていくかって話は、これは悩みではなく計画です。過去のことで悩んでいるということは、過去のことで悩んでいるということなんです。
つまり、変えようのないことを変えたくて、でもやりようがなくて、ただ過去の自分を責めているだけの今の自分ということです。
これなんでこうなるんだと思いますか。
私は、執着が全ての原因なんだと思っているんです。
で、だいぶ遠回りしましたが、「超感覚的で多幸感に溢れている一瞬の出来事」として自分を認知し始めたきっかけ、執着は死ぬまでなくならないんですが、だって死にたくないっていうそれも生に対する執着なので、執着は人間なら別に死ぬまであるものだと思うんです。
問題なのは、執着とどう付き合うかだと思っていて、今の自分に実害を及ぼす、圧倒的に自分を不自由にしている執着と決別した話を最後にして、終わりにしましょう。
「お前のピークはもう終わったんだよ。あとは死ぬまでの余生だ。楽しく生きなよ。」
母親に言われた言葉です。
ちなみに、こんな口調ではなく、もうちょっと優しく、だけど私の心に響かせるためのきつさも感じさせる口調ではありました。
先述しましたが、学歴を一例にして、当時でいう今の自分がとにかく許せなかったんですね。なんでもっと良い大学に行こうと思わなかったのか、なんでもっと良い会社に入ろうと学生時代に努力しなかったのか、てかそもそもなんで学生起業なんかしてしまったのか。
もっと普通になりたかった。もっと普通の、どこにでもいる人生を送りたかった。
つまるところ、私の究極のコンプレックスはそこだったわけです。子供の頃から変わってると言われて育ちましたが、ずっと、普通になりたかったんです。
そして、25歳で自分で作った会社をたたみ、会社員になり、やっと普通になれたと思いました。でも普通の世界では、常に普通でいるための努力をしなければいけません。
学生起業して海外に住んで事業をやって、25歳まで会社員経験なしなんて経歴を話したら普通じゃないと思われてしまいます。でも事実なのだから言うしかない。
結局、自分は普通にはなれなかったのかもしれない。
他人からすればしょうもないことなのですが、本人からしたら生きているのが嫌になるくらい辛いことだったんです。そして母親と話をしていました。
過去を生きている人。律儀に、誕生から今まで一直線上に生きていると思っている人。
あの時ああしとけばよかった
なんで自分はこれがないのか
執着というのは過去の出来事に発生しているケースが大半です。未来のことについて頭がおかしくなるほど悩む人はそうはいませんよね。
例えば明日、大病を患うのではないかと今日を不安一杯で生きている人は少ないと思います。いないわけではないと思いますが。でもちなみにその大病の種類にもよりますが、そこまで強く不安になるということは、そうなってもおかしくないと思ってしまうことを過去にしていた、ということですから、結局、過去に自分がしてしまったことを後悔して、将来に怯えているわけですよね。
で、その過去には2種類あります。
輝かしい栄光の過去
無惨に散った暗黒の過去
このどちらもが、今の自分の執着を生み出す原体験になっていることが多いと感じています。自分はそうでした。
①でいうと、自分は足が早く、小学生の頃モテていました。しかし素行はあまりよろしくなく、先生からは嫌われるタイプでした。同級生には、真面目だけど運動も特に出来ないし、鈍臭かったので小馬鹿にしていた子がいました。
中学生の頃、彼は、私が女の子に夢中になっている間に、運動もスポーツも頑張り、その真面目さから先生たちからも好かれ、しまいには私の方が上手だったはずのスポーツも彼の方が上手になっていました。勉強はもちろん彼の方が上です。これが②です。
この、私は敗北したのだという事実と、私はモテているのだという事実が拮抗した時に、多くの人は都合よく後者にすがろうとします。後者の自分であり続けようとします。
しかし、無理なんです。だって小学生は足が早ければモテますが、大人になったらそんなのどうでもいいことです。じゃあ何かで補おうとするわけです。それで何かをするわけです。足が早くて注目を集めた時のように何かで注目されたい。そうして、自分を見失い、誰かに注目されるためだけに生きる日々が始まり、いつの日か、ふと気付くのです。
本当に欲しかったもの、何も手に入れずに、入れようともせずに生きてきてしまった。あーあ。
それが感極まって、インドに行こうと母親に話しました。何か重大なものを持っているわけでもないのに、何もかも手放してしまいたかったんです。
すると、
こう言われました。
こう言われた時に何を思ったのかと言えば、もう戦わなくていいんだ、ということでした。
あの日負けた自分を勝たせてあげなくていいんだ。もう終わりにしてあげていいんだ。今までよく頑張ってくれたね。ありがとう。もうあとは好きなように生きてね。
その瞬間に、自分がこの世界で息をして、生きていて、今を感じることができたんです。
自分というものは、過去から一直線上に続いているものではなく、今の連続の上に成り立っている、一瞬の出来事みたいなものだと思っています。
つまりは一瞬の存在。今の自分は、明日にはいない存在。
でも明日もあるかどうか分からないから、永遠の今を繰り返す存在。
自分の価値がよく分からない、自分を許せない。自分を認められない。何か過去の自分にすがっているのかもしれません。でも、もういいんだと思いますよ。過去の自分を勝たせてあげても、喜んでくれる人は1人もいません。
今しか生きられない自分を、もっと愛でていこう。
最近、自分は「明日には会えなくなる自分と、今日は何を楽しもう。」を口癖にしています。
以上、長くなってしまった。