『往復書簡 限界から始まる』(上野千鶴子、鈴木涼美/幻冬舎)
「あなたが今、何者であるの方が、かつて何者であったかよりも、もっと大事です」
上野さんの手紙の中にあったこの一言に、ぐわんと視界が揺れるのを感じた。
何か書こう、作ろうと決意したとき、私はいつも目を瞑って、じっと自分の過去を振り返る。そしてその時、過去に無視をした自分の怒りや悲しみなどを含む、叫びたいという衝動を、自分の身体に引き戻してくる。それは一度やっとの思いで殺し、土に埋めたぐちゃぐちゃの死体を掘り返し、再び元の形に戻そうとパズルゲームをしているような感覚だ。殺してしまった罪悪感から、私はあえて強い腐乱臭をあえてたくさん吸い込むように意識する。それに伴う吐き気は、むしろ私に自分は生きているのだという安心感を与えてくれる。
この本のタイトルの候補として「もう加害者にも被害者にもならないー構造と主体の隘路駆け抜ける女たちへ」というものもあったらしい。
社会を俯瞰してみているとき、私は救われるような感覚になることがある。そして、同様にに社会を俯瞰し、分析を好む友人達と言葉を交わすことは、非常に心地が良い。誰も傷つかないからだ。しかし、それはどうしようも無く退屈で、そこで重ねていた言葉は、日々に生きる「私」にとっては現実味の無いものとなる。
日常の中で感じていることを素直に言葉にすることは、むしろ今ある自分にとって都合がいい環境を手放すことに繋がることになることもある。だから、かすり傷程度であれば、自然に治癒するだろうと放っておく。その内、傷ついていることにも気が付けなくなる。鈍感が正義だと思うようになる。そう思ってしまう自分のことを、堪らなく気持ちが悪いと感じる。
どうしても、どちらか一方に決めたくなる。だが、人間は「自分が一番大切なエゴイスト」なのであり、そんなエゴが孤独を生み、孤独こそが人と人との、男女といったものを超えた関係性を築いてくれるのかもしれない。
どうしようもなければ、それはそれでしょうがないのだ。自分が一番心地よい選択とはなんなのか、それを常に問いかけることが、本来の日常で、それをどうこうすることは、「私」を生きる自分自身しかできないのである。
彼女たちのやりとりの中では、何度も母との関係性について触れられていた。子供は、生まれる場所を選ぶことはできない。子供を持つという選択は、強い結びつきを渇望する人間のエゴで、だからこそ価値のあるものなのだろう。
私には、母がいて、家族がいる。それを常に意識するかしないか、それを受け入れるかどうかは、今の私にとっての選択だ。
私は今、何者でありたいのか。もっともっと自分にとって気持ちいいことを大切にしたいし、エゴイストでいたい。腐乱臭が心地良いなんて、嘘だ。
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