義経と白拍子静御前.2
『吾妻鏡』によれば、源義経は文治5年閏4月30日(1189年6月15日)に奥州衣川の館で自刃したとされるが、その不遇の死への同情から、生きていて欲しいという人々の願望、実は生きて逃亡したのではないかという疑念や期待が「義経生脱伝説」を生んだ。
室町時代以降、軍記物語によって醸成された判官びいきと義経生脱説が「御曹子島渡」説話と結びつき、新たな伝説を生む。江戸時代初期に出版された『義経記』元和木活字本が広く流布、続く寛永年間でも流布本がでまわり、以降、「判官もの」として浄瑠璃・歌舞伎・狂言・読本等でもさかんに題材とされるなかで、義経は自刃したとみせかけて蝦夷地に渡ったとする義経入夷伝説(義経北行伝説)が生まれた。以降、様々な創作と虚説、あるいは捏造書が生み出された。
江戸時代の知識人層でも義経の死については疑義が示され、首級の搬送期間が明らかに長いことから、水戸藩編纂『大日本史』では偽の死で北へ逃亡した可能性が注記された。朱子学者・新井白石も義経の搬送された首は偽だろうと記した。明治期になると、帝国大学文科大学教授らが『吾妻鏡』を根拠に義経自刃を史実とし、以降現代に至るまで歴史学上は義経生脱・入夷説は否定されている。
一方、民間では創作や捏造が肥大化、江戸時代中期以降、義経は蝦夷地のアイヌたちの棟梁、大陸の金国の将軍、さらには清国の祖とされた。この義経=清祖説は、夏目漱石『吾輩は猫である』でも触れられているように、江戸から明治期まで庶民にとっても耳馴染みの言説だった。明治期には、さらに義経=成吉思汗説が浮上することとなるが、大正末期に出版された小谷部全一郎『成吉思汗は源義経なり』が戦地で配布されたように、同説は「満蒙は国家の生命線」(松岡洋右)とする帝国日本の国家戦略と軌を一にして、昭和期の大陸侵略に利用された。
現代では、荒唐無稽かつ有り得ない虚説とされるが、創作や捏造があることと、源義経とチンギス・ハンとが同一人物であるか否かは別問題である。義経の死を疑う論拠は多数あり、年代も合致し、義経の日本での活躍期にテムジンは大陸で行方不明になっており、義経の行方不明後に、テムジンはハーンを宣言、後にチンギス・ハンとなっている。文物も一致し、後述するように遊牧民族、騎馬民族の集団は、世襲・序列などにこだわらず、優秀な人材と信じた者を指導者に選び、場合によっては人種の違いさえも厭わないという事実等を論拠に、同一人物説を主張する人々は特に東北・北海道地方に根強く存在し、それを否定する知識人・歴史家との対決も長い歴史をもっている。
ただし、チンギス・ハンは家系がはっきりしており、日本人の噂や伝説は現在の所ないことや(偽史冒険世界)、日本からモンゴル高原まで相当な距離があること、また当時、のちにチンギス・ハンに倒されるまで大陸沿岸に存在した金国(女真族)は強大で、そこを通過する可能性、言語・軍資面など疑問が多く、物理的にも史的観点からもこの説の立証は難しく、またチンギス・ハンが大量殺戮をしている点なども、行動・性格が違いすぎることから、学術的には否定されている。
六回蘇った義経
源義経復活譚は、『成吉思汗ハ源義經也』が最初ではない。義経生脱説は日本の中世から近代にかけて、たびたび巷間に浮上してきた。
正徳2年(1712年)義経は衣川で死なず、蝦夷地へ脱出。義経は神として崇められ、子孫はアイヌの棟梁になった。
享保2年(1717年)義経は蝦夷へ脱出後、韃靼(沿海州・中国北部)を支配していた金国へ渡り、皇帝章宗から厚遇され子孫も栄えた(『鎌倉実記』)。
明和年間(1764-72年)義経は蝦夷から韃靼に渡った。その子孫が繁栄、のちに清国を建国した。
明治18年(1885年)義経は蝦夷から韃靼を経てモンゴルへ至り、成吉思汗となった(『義経再興記』)。
大正13年(1924年)小谷部の『成吉思汗ハ源義経也』によって義経=成吉思汗説が空前のブームになる。
義経生脱説は江戸中期の勃興から300年間囁かれ続けてきたことになる。
義経入夷伝説始まる
『吾妻鏡』では、源義経は兄頼朝に追討され、奥州平泉で藤原泰衡らに襲われ自刃したとされるが、実は生きて蝦夷に落ち延びたとする噂や伝説は江戸時代初期にはあった。寛文7年(1667年)、江戸幕府の巡見使一行が蝦夷地を視察し、アイヌのオキクルミの祭祀を目撃、中根宇右衛門(幕府小姓組番)は帰府後何度もアイヌ社会ではオキクルミが「判官殿」と呼ばれ、その屋敷が残っていたと証言した。さらに奥の地(樺太・シベリア)へ向かったとの伝承もあったと報告する
蝦夷地には判官殿の屋敷跡が多数残っております。また、さらに、奥の地に行かれたという伝承もございます。(奥には)弁慶岬なる岬、石狩川なる大河があり、さらに奥には樺太なる島もございます。この島には葦に覆われており、葦の上を渡ってこの地に渡ると伝え聞いております。この所には泥海があり、難破船が多く見られます(松前藩の案内人の報告[8])
寛文10年(1670年)に林羅山・鵞峰親子が幕命で編纂した歴史書『続本朝通鑑』では、「俗伝」として衣川で義経は死なず脱出して蝦夷へ渡り子孫を残したという旨を明記した。その後、徳川将軍家宣に仕えた儒学者・新井白石は『読史余論』(正徳2年・1712年)、更に『蝦夷志』で言及。徳川光圀編纂『大日本史』でも注釈扱いで、泰衡が送った義経の首は判別不能で、義経は逃れたかもしれず、蝦夷では神として祀られている旨が記された。広く読まれた馬場信意による通俗軍書『義経勲功記』(正徳2年)では、義経は蝦夷の棟梁になり、シャクシャインは義経の子孫として描かれた。
杉目太郎行信の伝説
義経は頼朝に追われ奥州へ落ち延びたあと、杉目太郎行信(すぎのめたろうゆきのぶ)という義経そっくりの人物と遭った。奥州の藤原秀衡のもとで青年期を過ごし、日々の鍛錬を共に過ごした仲であった。泰衡は義経を呼び「蝦夷ヶ島(北海道)へ落ち延びよさもないと討つ」と打ち明け、義経も泰衡の胸中を察し高館退去を決意したが、行信は「館に人がいなければ逃亡したことが明らか」とし、当地に留まり、義経の鎧、兜などを形見に所望し、義経平泉退去の2日後、泰衡の高館襲撃で行信は身代わりとなった。当地に残る伝説。
義経、韃靼へ渡り金の将軍になる
義経入夷伝説は飛躍して大陸へ渡る。当初は室町時代の御伽草子『御曹子島渡』の影響が強かったが、寛永20年(1643年)の越前国新保船漂流事件[注 5]以降、義経が大陸へ渡ったとする説が囁かれるようになる。大陸入部説の比較的古い例は、延宝年間(1673-81)以降の成立とされる、京都養源院の住職(津軽藩主の子)が記した『可足記』。
義経の首は身代わりの家臣のモノで藤原泰衡の死後、義行と名を変え、高館から鎌倉を攻めようとしたが失敗して外ヶ浜に逃げ逃れた。そして御厩(みんまや)から狄ガ島(えぞがしま)へ漂着して戻らず金へ渡ってその子孫が源義澄と名乗った
私的日記の記述で、この頃はまだ一部の知識人間での話題であったと思われる。
その後享保年間(18世紀前半)に注目されたのが『金史別本』で、12世紀の金国の将軍に源義経の子・義鎮がいたなどと記された偽書である。享保2年(1717年)、この『金史別本』が史学界で話題になり、新井白石は偽書と見抜いた。しかし、印刷技術及び出版流通も未発達な時期に同書の記述は後代まで影響し、他にも類似の偽書(架空の書)が多数創作された。
「#金史別本について」も参照
義経、清国の祖とされる
渡金説は効力を失ったが、寛政4年(1792年)、蝦夷地を訪れた和算家・串原正峯(せいほう)は、『夷諺俗話(いおんぞくばなし)』第一巻で、「密に蝦夷地へ落行」した義経の武威に蝦夷人が恐れ服し、「夫より金国へ渡りたまひしよし云伝る事なり」と記しており、蝦夷地にまで金に渡ったという流言が広がっていたことが窺える。
また、延享3年(1746年)の跋を有する俳人米山沾涼による説話集『本朝俗諺志(ぞくげんし)』巻四の「高舘城」には、義経が樺太で農耕と文字を教えて国王となり源国を建てたとする話があり、初めは金国の臣下に留まっていた義経は、国王にまで祭り上げられる。明和5年(1766年)刊の滕英勝(とうえいしょう)の小説『通俗義経蝦夷軍談』では白石『蝦夷志』の知識に頼りつつ、筋立ては義経が蝦夷軍との戦いに勝利する過程が描かれ、ついには清国の祖とされた。衣川で義経の死は諸書で歴然とし、「義経金へ渡りしという説あれどもその証慥(たし)かならず」と渡金説を否定しながら、清で門毎に貼られている義経の画像を確かな証拠とし、「今中国の天子は義経の子孫なりと伝えり」と断定するに至る。さらに世上の話題となったのは、天明3年(1783年)年刊の森長見『国学忘貝(わすれがい)』である。同書巻下では、輸入された清朝の一万巻の『古今図書集成』中に130巻からなる『図書輯勘』があり、その序文に、
「朕姓ハ源、義経之裔、其ノ先ハ清和ニ出ズ、故ニ国ヲ清ト号ストアリ…」
と、ある儒者が書いていると紹介したが、これも捏造であった。
「#図書輯勘・輯勘録・大清会典副本など」も参照
江戸後期の庶民の間では、義経が金の将軍になったり、松浦静山の『甲子夜話』(文政4・1821年)及び『甲子夜話続編』などにみられるように、義経が韃靼に渡り、その子孫が清和源氏の一字をとって、清国を興したとする説が幕末まで一般的であった。なお、通俗小説の世界では、嘉永3年(1850年)の永楽舎一水『義経蝦夷軍談』に義経が成吉思汗になったとする話もあったという。
そして成吉思汗に
最初にチンギス・ハンは義経であるとの論陣を張ったのは日本人ではなく、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトであった。
「#シーボルトの説」も参照
文政6年(1823年)に来日したシーボルトは、長崎の鳴滝塾などに多くの門弟を集めて洋学の発展に尽くしたが、いわゆるシーボルト事件によって同12年(1829年)に国外追放となった。日蘭修好通商条約締結を機に、翌安政6年(1859年)年に再来日を果たして活動、文久2年(1862年)に帰国した。
吉雄忠次郎に義経=成吉思汗説を聞いてから、風説にすぎなかった同説に文献的裏付けを得るため、『日本』執筆時に白石の『蝦夷志』を、フランス語訳マルテ・ブリューン編『地理及び歴史に関する探検旅行紀集』第24巻を介して読んだという。
度目の来日では同説を日本の友人らに盛んに吹聴している。文久3年(1863年)の松浦武四郎『西蝦夷日誌』二編によれば、蕃書調所の大島高任から次のような話を訊いたという。シーボルトは中国に渡って「建靖寧寺記(けんせいねいじき)」という碑文を見たが蒙古語で全く読めなかった。
中国人から大意を聞くと元の太祖はもと日本人で、兄の勘気に触れて蝦夷に渡り、彼らを服従せしめて満州に移って蒙古に赴き、中国を治めて帝位に上り、源氏の源を借りて元と国号を改めた旨が記されているという。
これは『柳庵雑記(りゅうあんざっき)」という書に基づくという。蕃書調書の西周も明治2年(1869年)稿「末広の寿」で、シーボルトが元の太祖は蝦夷に渡った義経であると、再来日した際に話したとしている。シーボルトは洋学者たちに切々とこの説を説いて回ったが殆ど信じてもらえなかった。 ただし、白石は義経の韃靼行と清祖説には触れているが、全面的に肯定しているわけではなく元祖説にも至っていない。近世中には義経=清祖説が一般的で、韃靼は満州近辺と認識されており、義経の韃靼行は広く信じられていた。シーボルトはこれを『蝦夷志』で抑え、韃靼をモンゴル即ち元と解釈し、義経=ジンギスカン説として発表した。
明治初期、アメリカ人教師グリフィスが影響を受け、その書The Mikado's Empire(皇国), 1876 で同説に言及。末松謙澄の英語論文の翻訳本『義経再興記』(1885年)、及び大正13年(1924年)の小谷部全一郎『成吉思汗ハ源義經也』の2書は公刊後に各々ベストセラーとなり、多くの信奉者を生んだが、言語学者・岩崎克己は義経がチンギス・ハンになったという説はシーボルトが最初で、その論文の影響が非常に大きいとしている。
義経=成吉思汗説(よしつね=じんぎすかんせつ)は、モンゴル帝国の初代皇帝チンギス・ハン(チンギス・カンとも)と源義経は同一人物であるという仮説・伝説(「ジンギスカン」は明治から昭和期の歴史的呼称で、漢字表記「成吉思汗」に対する当時の発音表記)。
チンギス・ハン(以後、チンギス・ハンと統一)が義経だったとする説は、明治中期から広がり、大正13年(1924年)に小谷部全一郎著『成吉思汗ハ源義経也』が出版されると、反論も含め反響を呼び、版を重ねるベストセラーとなった。
この説の流布に大きく貢献したのは、オランダ商館医を務めたドイツ人医学者シーボルトで[1]、その著『日本』で新井白石『蝦夷志』等を参考に同説を論じた。それに影響を受けたウィリアム・グリフィスや手塚律蔵の著書を参考に、末松謙澄が英国留学中に英語論文を公刊。小谷部全一郎の著作はそれを下敷きに書かれたものである
源頼朝の異母弟であった「義経」
静御前(しずかごぜん、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性白拍子。母は白拍子の磯禅師。源義経の妾。
生涯
『吾妻鏡』によれば、源平合戦後、兄の源頼朝と対立した義経が京を落ちて九州へ向かう際に同行するが、義経の船団は嵐に遭難して岸へ戻される。吉野で義経と別れ京へ戻った。しかし途中で従者に持ち物を奪われ山中をさまよっていた時に、山僧に捕らえられ京の北条時政に引き渡され、文治2年(1186年)3月に母の磯禅師とともに鎌倉に送られる。
同年4月8日、静は頼朝に鶴岡八幡宮社前で白拍子の舞を命じられた。静は、
しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
(倭文(しず)の布を織る麻糸をまるく巻いた苧(お)だまきから糸が繰り出されるように、たえず繰り返しつつ、どうか昔を今にする方法があったなら)
吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき
(吉野山の峰の白雪を踏み分けて姿を隠していったあの人(義経)のあとが恋しい)
と義経を慕う歌を唄い、頼朝を激怒させるが、妻の北条政子が「私が御前の立場であっても、あの様に謡うでしょう」と取り成して命を助けた。『吾妻鏡』では、静の舞の場面を「誠にこれ社壇の壮観、梁塵(りょうじん)ほとんど動くべし、上下みな興感を催す」と絶賛している。
この時、静は義経の子を妊娠していて、頼朝は「女子なら助けるが、男子なら殺すように」と命じる[注 3]。閏7月29日、静は男子を産んだ。安達清常が赤子を受け取ろうとするが、静は泣き叫んで離さなかった。磯禅師が赤子を取り上げて清常に渡し、赤子は由比ヶ浜に沈められた。
9月16日、静と磯禅師は京に帰された。憐れんだ政子と大姫が多くの重宝を持たせたという。その後の消息は不明。
伝説
静に関して史料による記録が見られるのは、上記の『吾妻鏡』のみであり、同時代の都の貴族の日記などで静に関する記録は一切見られない。『吾妻鏡』は時の権力者で源氏から政権を奪った北条氏による編纂書であり、静の舞の場面は源氏政権の否定、北条氏(政子)礼賛という北条氏の立場に拠ったものである事から、北条氏の政治的立場による曲筆との見方もある(『吾妻鏡#吾妻鏡の曲筆と顕彰』参照)。
また、史実から確認できる静以外の義経の妻妾は河越重頼の娘(正室・郷御前)と源氏の敵である平時忠の娘(蕨姫)しかいないが、北条氏と政治的に対立した比企氏の存在を否定的に描く『吾妻鏡』では、比企氏の外孫である重頼娘の存在感を消すための曲筆の手段として静御前の存在を利用したとする見方もある(『吾妻鏡』において義経の正室である重頼娘の記事は3か所のみである)[1]。その他のエピソードは、鎌倉時代に成立した軍記物語である『平家物語』「土佐房被斬」章段の一部と、室町時代初期に書かれた『義経記』の創作によるものである。
『義経記』によると、日照りが続いたので、後白河法皇は神泉苑の池で100人の僧に読経させたが効験がなかったので、100人の容顔美麗な白拍子に舞わせ雨を祈らせた。99人まで効験がなかったが、静が舞うとたちまち黒雲が現れ、3日間雨が降り続いた。静は法皇から「日本一」の宣旨を賜った。また法皇は、静を見て「カノ者ハ神ノ子カ?」と感嘆したと言う。
その後、住吉での雨乞いの時に、静を見初めた義経が召して妾にしたという。
弁慶 牛若との出会い
鬼若は比叡山に入れられるが勉学をせず、乱暴が過ぎて追い出されてしまう。鬼若は自ら剃髪して武蔵坊弁慶と名乗る。その後、四国から播磨国へ行くが、そこでも狼藉を繰り返して、播磨の圓教寺の堂塔を炎上させてしまう。
やがて、弁慶は京で千本の太刀を奪おうと心に誓う。弁慶は道行く人を襲い、通りかかった帯刀の武者と決闘して999本まで集めたが、あと一本というところで、五条大橋で笛を吹きつつ通りすがる義経と出会う。
弁慶は義経が腰に佩びた見事な太刀に目を止め、太刀をかけて挑みかかるが、欄干を飛び交う身軽な義経にかなわず、返り討ちに遭った。弁慶は降参してそれ以来義経の家来となった。この決闘は後世の創作で当時五条大橋はまだなく、決闘の場所も『義経記』では五条の大橋ではなく堀川小路から清水観音での出来事とされている。
また現在の松原通が当時の「五条通り」であり、また旧五条通西洞院に五条天神社が存在し、そこに架かる橋であったともいわれている。決闘の場所を五条大橋とするのは、明治の伽噺作家、巖谷小波の書いた『日本昔噺』によるもので、『尋常小学唱歌』の「牛若丸」もこれにしたがっている。千本の太刀をあと一本で奪いそこねる話は仏教寓話に同様の話が存在する(アングリマーラを参照)。
義経の忠臣
その後、弁慶は義経の忠実な家来として活躍し、平家討伐に功名を立てる。兄の源頼朝と対立した義経が京を落ちるのに同行。山伏に姿を変えた苦難の逃避行で、弁慶は智謀と怪力で義経一行を助ける。
一行は加賀国安宅の関で、富樫介(能の『安宅』では富樫の何某(なにがし)、歌舞伎の『勧進帳』では富樫左衛門。富樫泰家に比定される)に見咎められる。弁慶は偽の勧進帳を読み上げ、疑われた義経を自らの金剛杖で打ち据える。富樫は弁慶の嘘を見破りながら、その心情を思ってあえて騙された振りをして通し、義経一行は無事に関を越える。
義経一行は、奥州平泉にたどり着き、藤原秀衡のもとへ身を寄せる。だが秀衡が死ぬと、子の藤原泰衡は頼朝による再三の圧力に屈し父の遺言を破り、義経主従を衣川館に襲った(衣川の戦い)。多数の敵勢を相手に弁慶は、義経を守って堂の入口に立って薙刀を振るって孤軍奮闘するも、雨の様な敵の矢を身体に受けて立ったまま絶命し、その最期は「弁慶の立往生」と後世に語り継がれた。
なお、義経主従は衣川館では死なず、平泉を脱して蝦夷地へ、あるいは西国に逃れたとする、いわゆる「義経北行伝説」にも、弁慶に関するエピソードは数多く登場する。
能・歌舞伎
弁慶は猿楽・能の『安宅』やそれを歌舞伎化した『勧進帳』でも主役を張っている。
花道の出
義経が頼朝と不仲になり、都落ちして奥州藤原氏のもとに身をよせることになった。途上、義経一行は山伏に扮して安宅の関を越えようとした。
勧進帳の読み上げ
ところが一行は関守の富樫に見咎められる。これを弁慶は「奈良の東大寺再建のため諸国をまわり勧進(寄付)を募る山伏である。」と答え、富樫は「勧進帳を出せ」と詰め寄る。もとより一行はそのようなものを持っていなかった。しかし、弁慶は機転を利かせ、もともと寺で修行経験があったことが幸いして、持ち合わせの巻物を広げ、朗朗と読み上げていく。この機転によって無事関を越えられそうであった。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/19 08:23 UTC 版)
『和漢英勇画伝』より「義経 弁慶と五条の橋で戦ふ」(歌川国芳画)
五条大橋での戦いを描いた江戸時代の浮世絵