見出し画像

「夢の島」に夢が建つ

ディズニーランドは砂上のロウカク?

2022-06-18 07:43:47  | 記事を転載 (加納久朗の活躍した時代)

その当事、千葉県知事であった加納久朗知事が、あたりの干拓地を埋めて大工業地帯にしようという構想がそれだった。

加納久朗千葉県知事時代に『東京湾埋立による新東京建設提案』を遂行した。現在の東京湾千葉県海浜地帯の開発は、このときより始まっている。

50年前の稲毛海岸一帯は、蛤の潮干狩りのメッカであったことは、いまとなっては夢物語だ。
今の「東京ディズニーランド」は、その上に立っている。

写真Ameba 埋立前の千葉市稲毛海岸の風景。!(^^)! | 千葉の歴史、名所、旧跡アドバイザー・尼木のブログ

Ameba

■加納 久朗(ひさあきら、明治19年(1886年)8月1日 - 昭和38年(1963年)2月21日)は、日本の銀行家、政治家。子爵。千葉県出身。京葉臨海工業地帯開発(東京ディズニーランドなど)

千葉県一宮町出身。元千葉県知事、元国際決済銀行取締役、副会長。父は、最後の上総国一宮藩主であった加納久宜。

昨日「原油価格サウジアラビアの動向」で石油相場の原因を突き止めて、結果的にそれは『日本軍満洲大慶油田』まで話しが行ってしまった。(2016-03-01 06:29:48  現在記事)

ついで、といってはなんだが、この際だから、もっともっと突っ込んで掘り下げてしまおう。そうすることで石油価格、強いては日本の資源について、さらに50年先の「日本の国に人がいなくなった」時を想定して、諸々を考えてみようと思う。

余談だか~、こんなことを考えた。それは昨晩の「夢の中」だった。

「なんにも手を打たないと50年後の日本人口は8000万人だよ~」、という「降臨神」のお告げだが、そんな社会インフラだったら、いま実験中のタクシー「自動運転テスト」なんてダサい施策で、そんなの必要ないじゃん、と、「降臨神」に相談してみたが。(ちなみに江戸の人口)

ということは、政府規模として現在の66%人口想定の政府があればいいわけだ。単純に計算して34%の国家予算が削減できる。大変な金額だ。もちろん、いま考えられるあらゆるケースを、そこに注入しての想定数だ。

昨日の石油価格の上下予想記事で、ブロでも把握できないのだから、50年後の「何々はこうであろう」という推定は通用しない。
と知りつつ、古来、ギリシア哲学の教えに従い「経験的観測」というのがあり、人間の日々日常から導かれる物理現象を、他のケースに当てはめてみるという手法だ。

判りやすい例で「コペルニクス的転換」という考え方であり、ものの見方を相対的に観測する。ある意味では金融工学的な、理系文系のハイブリット経済学と自認する。

コペルニクスで思い出すのが、「ニュートン」秘話で、ニュートンは中世の錬金術の研究をしていたという話しを本で読んだことを思い出した。

錬金術というとエセ非科学世界を連想しがちだが、その時代は、元素周期表(1869年ロシアの化学者ドミトリ・メンデレーエフ)はまだ判っておらず、金を合成によって錬金するという未知の分野を開拓していた。
(スタップ細胞みたいな代物。で、それが実際あった?としたら話はもっと複雑化して、潰して搾取しようとした奴は、今更ありました、とは絶対云えないし、世紀の発見が闇に消えたことになる。例として宇宙仮想物質「エーテル」)

また「相対性理論」という理論革命はアンイシュタインの功績だが、その前にニュートンが発表していて、その計算方法は、アインシュタインのものよりわかり易い、という科学者の評があるほどだ。

34%国家予算削減の話し~

人口8000万と云ったら、地方田舎ではおそらく近隣町村の一つ二つが消えてなくなっている。(喩えは適切でないが3.11被災地による町・村の消滅)

その跡地は、予算的に整理されないまま放置されるだろう。そこに移住者の新規参入地として提供。(人口が減っても工業生産は維持する)そのためには海外移住者導入を国是としなければ、国家そのものが成り立たない。

古代日本の「唐」また大和王権時代の「舎人」という先進職業集団の移住があったことを考えれば、まったく新しい試みというわけではない。
※舎人(とねり・しゃじん)とは、皇族や貴族に仕え、警備や雑用などに従事していた者。その役職。ヤマト王権時代には既に存在した名代の一つであり、「トネ」(刀禰、刀祢、利根、刀根、登根、戸根などとも)に起源を同じくする。(前項で詳細に記述)

大王の身の回りの世話を受け持つ舎人は、古くは川や船など水運に関わる従事を指したと考えられ、このことは「トネ」に由来する地名が河川や港浦を中心に分布することから示唆される。これに「人」を表す「リ」が付き「トネリ」として一般化し、靱負(ゆげい)、采女(うねめ)、膳夫(かしわで)と並んで、大王の側近を意味した。なおこの語の用法は『古事記』にしか見られない。

やがて氏姓が始まると、東国を中心に国造などにこのトネを冠した「等禰直」「舎人直」などの人名としても見え始め、さらにはこうした大王の側近や有力な世襲豪族には御名入部(みないりべ)である「舎人部」(舎人に近侍する下級役人)を持ちはじめ、舎人直 ― 舎人 ― 舎人部 という階層関係がみられた。

これらの舎人は天皇に貢進もされ、新たに舎人として近侍した。

天武天皇の673年(白鳳2年)に大舎人寮に仕官希望者を配属させる制度を定めて本格的整備が始まるが、新たに八色の姓が置かれても天皇に近い有力貴族を表す「舎人」の語は残り、律令制の成立後、公的な舎人制度として内舎人(定員90人)・大舎人(同左右各800人、計1600人)・東宮舎人(同600人)・中宮舎人(同400人)などが設置された。

原則的に三位以上の公卿の子弟は21歳になると内舎人として出仕し、同様に五位以上の貴族の子弟は中務省での選考の上、容姿・能力ともに優れた者は内舎人となり、それ以外は大舎人・東宮舎人・中宮舎人となった。大舎人・東宮舎人・中宮舎人の不足分は六位以下の位子からも補われた。この他にも兵衛なども舎人と同じような性格を有した他、令外官的な舎人も存在した。この他に公的な舎人を支給されない皇族や貴族の私的な舎人として帳内・資人が設置され、その家政機関に従事した。

舎人の職務そのものは宿直や護衛、その他の雑用などであったが、その中において官人として必要な知識や天皇への忠誠心などを学んだ。律令制の任官制度では、舎人に任じられた者は一定期間の後に選考が行われて官人として登用されることになっており、支配階層の再生産装置として機能した。また、地方出身者は帰国後に在庁官人や郡司に任じられた。朝廷にとって、国内支配階層の各層から舎人を集めることは、その影響力を各方面に及ぼす上で有利に働いた。

こうした律令の支配が地方へも及んだことは、出雲国風土記で意宇郡に舎人郷(現;島根県安来市)の地名が見られることからも類推される。だが、平安時代に入ると、舎人の志望者が減少して、本来舎人になれない外位や白丁の子弟からも不足分を補うようになった。また、舎人の身分を悪用して違法行為を行うものも現れ、制度そのものの衰退につながり、「舎人」は使われなくなっていったと考えられる。

なお、本居宣長は『古事記伝』の中で、「とのはべり(殿侍)」という語が変化して「とねり(舎人)」という語が発生したと推測しているが、殿は平安期以降に一般化した貴人への敬称で、律令以前から存在していた舎人には当てはまらない。(資料ウィキぺデア)

その「舎人」的移住民を過疎(無人化した町・村)に入植させる。当然、それらを律するには細かな法律がいる。

この法律は、基本的、根本的に換える必要がある。といっても今騒いでいる「9条部分変更」というミクロではなく、コペルニクス的に大変革する必要がある。それをどう換えるのかといったら、「政府・内閣」という物理的「箱」を解体してしまう。一口でいって「概念上」の政府であり、もっと簡略化するとバーチャル的政府だ。

総ての機能を、パソコンに封じこめて、法律は「マニュアル」条文によって記述する。現在でも、内閣府通達の手紙類はPDFファイルで配布閲覧している。
そこで一番問題になるのは、表記字文章の解釈だ。

例えば、筆記具1本にしてもぺん・ボールペン・万年筆(国産メーカー別)、筆ぺン、マジックペンなど、挙げたらきりがない。しかし、それを特定したカタチのものとして指定するには、きっちり分類する必要がある。

そうした方法論を文書化して、パソコンに展開網羅する。当然セキュリティーは完璧にする必要があるが、古文書例のように紀元前の文献であっても、多数の記述者、また記述書(古事記など)が、そこいらじゅうに拡散していれば、ハッカーたちもそれに対応する必要があり、それは数人で処理できるものではない。という方法論を編み出して対抗する。

これは50年先の夢であり、まだまだ時間はたっぷりある。だから、おいおい、ここでも書き足したい。(なかなか実行できない筆者24/1)

「原油価格サウジアラビアの動向」より
戦前の石油生成に関しては大正11年に発表された東北帝大の高橋純一助教授(当時)の海底腐泥起源説が有力でした。
「石油とはかつて海だった底に泥とともに堆積した藻類やプランクトンの遺骸中の有機物が重合して形成された油母と呼ばれる複雑な高分子が、地熱の作用を受けて分解してできたものであり、油母は地殻変動で地層が波状にたわんで出来た背斜とよばれる波状の頂部にたまる」(石井正紀著、陸軍燃料廠 より)

そこから理論的に導かれる結論は、「石油は沿岸部・海底等の第三紀背斜構造にしか存在せず、中国大陸には存在しない」というものになり、これは当時の地質学関係者の一般常識になっていた。
(出光オイルアンドガス開発株式会社 取締役副社長 美谷島氏)

ギリシア神話がどうして地中海であったのか?

トルコイスターブールのモスクがどうして青タイルで覆われ、建築家「シナン」が手がけた訳は。またそれら教会建物のキリスト様式とイスラム様式が混ざっているのはなぜか、という難題解明とおなじくらい厄介な原因が潜んでいる。

など今日に至る歴史を語るとき、そこに隠された訳を説明すると、神話世界までに到達してしまう。

一本の糸が、たとえ100キロメートルのながさであっても、整然と巻かれていたら問題ないが、全部を解いて箱の中に放り投げたら1本か100本かの判別が出来ない。2000年の歴史5000年の歴史というものは、そのようなスタイルをしていると思われる。

宝探しの石油資源宝庫 満州二油田アリ

 1929年に世界的に広がった不景気により日本も深刻的な打撃を受けた。この状況を打開するために軍部の一部に満州を植民地化して危機を逃れようとする動きが強まった。一方、中国では21ヵ条の要求以来、排日運動が益々高まっていた。

 こうした情勢の中、1931年9月18日、関東軍の謀略で行なわれた柳条湖の南満州鉄道爆破を口実にして満州事変が勃発した。日本政府の戦争不拡大方針を無視する形で、関東軍は戦線を広げ、たった5ヶ月間で満州全域を占領した。

 日本国民はこの事変を熱狂的に支持し、日本政府もアメリカ・イギリスとの軍事衝突に発展しないと判ると徐々に追認していった。関東軍は翌年の1932年3月1日に清国最後の皇帝溥儀を執政に迎え都を新京に定めて満州国建国を宣言させ、日本の傀儡国家とした。

 中国の訴えで国際連盟はリットン調査団を派遣して調査させると鉄道爆破は関東軍の仕業であると判明し、その報告を受けて国際連盟は、日本軍の満州からの即時撤退を通告した。満州事変以降、軍令部からの圧力をはね除けられなくなった日本政府は、満州からの即時撤退に応じられるはずもなく、1933年国際連盟を脱退すると対中国戦に邁進していった。

 1938年友好国中国に対して日本が本格的な戦闘を拡大し出すと、アメリカは対日戦略プログラムである「新オレンジ計画」を実行に移していった。

 その第一弾として翌年、日米通商航海条約破棄を通告してきた。石油・鉄屑・工作機械等の戦略物資の輸出規制を行い始めた。

 これらの物資は、日本の依存度が6割を越えていて、特に石油に関しては8割近くをアメリカに頼っていた。特に陸軍は大陸での戦闘継続のためには大量の石油が不可欠なのは判っていたが、それを手に入れるためには大陸から手を引かねばならぬという二律背反に陥っていた。

 海軍でも以前から、アメリカ以外の国から、できれば自国の勢力圏内に、独自の油田を欲していたが、ことごとくアメリカの横やりで、メキシコやサウジアラビア等の産油国との取引はできなかった。

 国内での開発も北海道や新潟等からわずかな量が産出されていただけであった。

 そんな状況を打開しようと海軍では、石炭から石油を造り出す人造石油造りの研究を大正時代から始めていた。

 人造石油とは、石炭を液化してそれに水素を添加することによって得られる方法やガス化した上で触媒により石油を合成する方法などがあった。この技術は、同じく石油資源の乏しかったドイツが技術的に進んでいた。

 陸軍でも1938年にようやく燃料としての石油に着目し始め翌年になって陸軍燃料廠が設立された。これは海軍から20年も遅れてのものであった。陸軍でも人造石油の研究やハイオクタン化ガソリンの開発などを始めて、民間企業や学会などから技術者・研究者を国家総動員法を適用して集めた。また広大な満州の大地を掘削して油田の発見に当たるために作井部隊を集めて満州各地に向かわせた。

 古文書や土地の伝承などを手がかりに雲を掴むような作業であったが、1940年ついに黒竜江省安達県ゴルロス後旗バルガソムで大油田を発見した。しかしこの油田発見は、満州に勢力を伸ばしたかったソ連を刺激するには充分であった。前年の5月にノモンハンにて激闘を展開した両国は、お互いの国境に大軍を張り付かせていたが、油田発見の情報により緊張は一層高まっていった。

 アメリカ国内でも「日本が石油権益を得ることはとても危険な事である」との世論ができつつあり、このまま野放しにしておくとヨーロッパを席巻しているドイツとアジアを征服した日本により、手に負えなくなると感じていたルーズベルト大統領は、ソ連のスターリンに密使を送り、対日戦争を働きかけた。満州の権益を欲したスターリンは了解して1941年12月8日に大軍を南下させた。ルーズベルトも太平洋艦隊に対し出撃を命じた。二つの大国から宣戦布告された大日本帝国は未曾有の危機を迎えた。皇国の興廃を懸けた戦いが始まろうとしていた。(記事引用)

戦前日本と石油 
灯台下暗し 満州にも石油あった。書庫戦前日本(大日本帝国)と石油

2010/4/13(火) 午後 10:38 満州にも石油はあった

陸軍の関東軍作戦参謀石原莞爾中佐はは昭和6年(1931 年)満洲事変を起こし満州帝国を創出しました。

首謀者の石原中佐や板垣大佐ら関東軍の参謀がは勝手に満州事変というクーデターを独断で行ったようにもいわれますが、彼らを後押しする軍人や官僚が日本国内にも多く存在したようです。

石原莞爾は事前の地質調査等で満州に石油は存在しないという情報を握りつぶしつつも、日本国内の大物有力者らには「満州にも石油はある」と嘯き満州事変への協力を取付けたようです。尚、満州事変後のの石原莞爾は超有名人で指揮者小澤征爾の「爾」など莞爾を真似た名前まで流行しました。現代でも石原莞爾を英雄視する向きがありますが明らかな「嘘データ」を流し勉強不足の政治家を誘導する図式は戦後いや現代の官僚にも受け継がれていますね。

満州国建国後、日本から数多くの石油開発技術者が満州に渡り、大規模な油田の試掘調査を行いましたが石原莞爾の内心の読み通り満州からは油田は発見されませんでした。この1930年当時満州国のあちこちで油田探しを行いましたが、「日本石油」が技術指導(支援)を行っていたそうですが米国製の最新機器を導入済みであった「日本鉱業」が支援を行っていたら油田を発見できていたかもしれないそうです。

日本は米国の探査技術に頼ると満州の石油利権に目をつけられる事を嫌がり秘密裏に試掘を行いました。米国に頼んでも、普通のライセンス金額じゃ日本の満州での石油掘りに協力する気は無かったでしょうし、逆に日本が石油を手にしたことで石油以外のクズ鉄やレアメタルの禁輸が早まったかもしれませんが。

その後昭和15年以降になると満州から石油技術者達と試掘機器は南方の蘭印石油の攻略準備研究の為日本に帰還したり仏印(ベトナム)に進駐し満州から姿を消したのでした。その後日本は支那事変、米英との開戦へとすすみ緒戦の快勝で予想以上に速く「南進」に成功を収めます。石油技術者達も蘭印の油田占領、油田確保や製錬所の修理などに大活躍しますが石油技術者の多くが挙って「南進」したため満州の石油探査は中止されたまま1945年日本は敗戦というかたちで終戦を迎えたのでした。

太平洋戦争が終わった14年後の1959年、突如中華人民共和国黒竜江省の大慶で大油田が発見され中国共産党関係者は大喜びし日本の旧満州ににた岸信介ら戦前満州で権勢を振るった新官僚や戦後に生き残った石油関係者らは驚愕し落胆、大いに失望したのでありました。この大慶油田はその後中国国内では最大級の油田に発展し1970年代から今日まで主力油田として中国の軍事経済を支える原動力となりました。

大慶油田も21世紀に入り退潮期に以降したとも伝えられますが2007年度4000万キロリットル(以下kl)以上も原油を汲みあげたそうです。

ちなみに戦前日本の年間の石油消費量は大雑把に年500万klでした。この500万klの石油も9割以上が輸入石油で石油を買うために日本は生糸をはじめ単価の安い繊維製品を輸出し続けて石油購買用に外貨を獲得する必要があったのです。

つまり石油生産者になれない日本だったから戦前は貧乏国家に終始したのでした。日本の新官僚や秀才参謀(統制主義者)らは馬鹿にしていたソ連の「第二次5ヵ年計画は凄い」とか「共産主義は恐ろしいが侮れない」などと変な影響を受けてしまいますが、ソ連も実際はバクー油田の石油を海外に売ったりウクライナの食料を(飢餓輸出)して外貨を稼ぎ出し軍備増強に当て込んでいたのでした。戦前日本もソ連の北樺太の油田の利権ほしさにソビエトを1925年国家として承認してしまったのですが。

でも?そうです、もし戦前日本が大慶油田を堀当てていれば戦争や事変・紛争に頼った

勢力拡大を図る必要もなく米国や英国とも戦う必然性もなく史実とは変わった「優雅な戦前日本」となっていたのかもしれません。

大慶油田については戦前の日本の技術ではでは試掘に成功しても大深度で汲出しは無理だったとか石油の質が悪く日本の精製技術では無理だったとかいう負け惜しみ専門家もいるようですが油田を確保・管掌できる優越感と昭和16年夏の米国の石油禁輸で尻に火がついて敗亡へと進んだ日本を比較すると当然に大慶油田は戦前日本が(満州建国問題)を横においても掘り当て利権とすべき大油田であったと思えてくるのです。(記事引用)

満州国は関東軍の謀略という風聞 北進論
「関東軍による満州国策略」という一辺倒な図式で括ってしまうと物事の本質が希釈されてしまう場合がある。
また意図的に、そのようにカムフラージュする場合もある。その糸口を探すには、まずスタート地点のどこに線が引いてあるのかという座標基点を定める必要がある。

北を支配する北進論
北進論とは、明治維新以降の日本で、「日本は北方地域へ進出すべきである」と唱えられていた対外論である。南進論と対をなす対外論である。北進論でいう「北方」とは、時代によって具体的にどの地域を指すのかは異なる。

北進論は、幕末の開明派の名君・鍋島閑叟がロシアの南下を警戒して、そのために帝都を秋田に置くべきだという意見を起源に持つ。明治以後、初期の北進論は必ずしも領土拡張や軍事的進出と結びついたものではなかった。日清戦争中の北進論は朝鮮半島、遼東半島を制圧した上、渤海湾奥に上陸し北京侵攻を目指す直隷作戦を意味した。

日清戦争・日露戦争に勝利した日本は、東亜同文会を率いる近衛篤麿や神鞭知常の対露同志会などによって政策化されていく。また、民間ではウラジオストクで浪人団体を率いていた内田良平らが唱え始める。

満州事変以降、満州国より北のソビエト連邦(ロシア)へ侵攻すべきとの議論となり、陸軍と関東軍の思想的イデオロギーとして定着した。1938年には張鼓峰事件、1939年にはノモンハン事件と日ソ間において大規模な紛争が発生している(日ソ国境紛争)。

第二次世界大戦時

北進論 
1.北樺太と沿海州へ 2.外蒙古とバイカル方面へ 3.イルクーツクへ 4.中央シベリアへ

陸軍にとっての最大の仮想敵国は伝統的にソ連(ロシア)であり、アメリカとの戦争は同国を仮想敵国とする海軍の戦争でとして、1942年春の対ソ攻勢を既に[いつ?]視野に入れていた。

田中新一参謀本部第一部長が1940年末から翌年初頭にかけて作成した『大東亜長期戦争指導要綱』では、南方作戦は5、6カ月で終結させ、その兵力を北方へ転用することを進言した。

1941年6月に独ソ戦が勃発すると陸軍内部には「北進論」が渦巻き、陸軍省は慎重であったが参謀本部は即時開戦に傾いた。そして、原嘉道枢密院議長・東條英機陸相の下、関東軍特種演習(関特演)と称して85万人を動員し「南北併進論」にこぎつけることに成功した。

しかし1941年7月、日本が仏領インドシナ南部に進駐したことで、アメリカ合衆国は対日全面禁輸に踏み切る。日本は戦争物資の枯渇に直面し、石油の備蓄は平時で2年分、戦時で1年半分しかなかった。

「北進」はあくまでもソ連の打倒が目的であり、得られる資源は北樺太の原油程度にすぎず、日本国の需要を賄えるものではなかった。
また、極東ソ連軍との兵力差もあり陸軍・関東軍は1941年8月9日に年内の対ソ開戦の可能性を断念、以降関東軍は対ソ国境警備のみを行うに留まった。日本はオランダ領東インドのパレンバンなどを中心とする南方資源地帯からの資源調達を選択し、南進を開始した(太平洋戦争)。

その後、関特演で充実させた兵力は南進の結果である太平洋戦争の開戦や戦況悪化にともない南方軍に引き抜かれていき、最末期にはソ連が対日参戦し満州国は崩壊、南樺太や千島列島が制圧された。

満州国の経済
1932年~1945年にかけて満州(現在の中国東北部)に存在した満州国の経済について記述する。1931年の満州事変、1932年の満州国の建国後、日本により統治機構が整備されていった。満州国に対する日本の産業投資は、重工業に対する重点的資本投下、そしてやや小額ながら農業資本投下、という構成であった。
満州国への日本の投資計画は、1933年に関東軍と満鉄調査部部員で構成する「満州経済調査会」が作った「満州国経済建設綱要」で基本方針が定められた。
「綱要」によると「我国経済の建設に当たりては、無統制なる資本主義経済の弊害に鑑み、之に所用の国家的統制を加え、資本の効果を活用」するとしており、当時、世界恐慌の影響を受けず重工業の生産高を増やしていたソ連型の計画経済を指向した。
金属、石油、兵器などの戦略物資は満州国と満鉄が主に出資して設立した特殊法人に独占を認めたほか、その他の産業でも一業一社主義を実施し、財閥を排除した。また、1932年に満州中央銀行を設立して、満州国内でいくつもの種類があった通貨を一元化し、満州元を発行した。

1930年代後半に入り、日本陸軍は満州国で自立した経済を確立することと、軍需産業の大規模な開発を行うことを決め、1936年10月の湯崗子会議で、軍需産業の確立、農産資源の増産、産業開発のための施設整備、20分野の産業を重点開発目標に定め総額26億円を投資する「満州産業開発五カ年計画」を決定した。
しかし、1937年に日中戦争が勃発したため、4月から始まった計画は鉱工業生産を中心に投資予定は大幅に増額修正され、約50億円となった。
自給自足経済の確立も困難となり、日本への原材料供給基地としての意味合いが強くなった。また、同じく1937年、鮎川義介が率いる日本産業が、本社を新京に移駐して満州重工業開発となり、満州国内の重工業、鉱業への持株会社として、鉱工業への投資を一元的に管理した。
当初、満州工業の中心は交通の要所奉天と大連周辺にあり、石油・石炭・大豆・鉄道部品・武器・航空機・リキュール・ビール・加工食品・ガソリンの精製等を行っていた。そのほか、鞍山、沙河口、旅順、撫順、阜新、等の都市であった。また、日本海地区への輸出の窓口として朝鮮北部の港である雄基港、清津港、羅津港も使われていた。

満州の対日貿易額は、1931年に輸出額が輸入額を超えた。投資額の半分から3分の2が、大豆製品に充てられ、約10%ずつが石炭と鉄に充てられた。輸入品としては、綿・様々な穀物の粉・粗鉄・工業原料等があった。
主要貿易国は中華民国と日本で、若干の輸出がソ連にもなされている状態だった。満州では、外国の実業家が「満州国("Manchukuo")」をもじって「日本州国("Japanachukuo")」と呼ぶほど、日本人の進出が進んでいて、日本が全額出資する満鉄と満州重工業開発が支配する特殊法人が国内の主要産業を独占していた。

鮎川義介の存在
投資機会をアメリカなど外国に分配することを求めたが、外国の影響を嫌う関東軍に拒絶された。
明治期、エドワード・ヘンリー・ハリマンの南満州鉄道への経営参画を阻止した経験は、満洲国建国後も、国家経営に影響することになる。しかし建国後間もなく、フォード・モーターやゼネラルモーターズなどのアメリカ企業や、香港上海銀行やP&Oなどのイギリス企業をはじめとする各国の大手企業が満洲国内に支店を置き営業を行い、フォード・モーターやゼネラルモーターズなどは乗用車で半分以上のシェアを獲得している。日本の投資により、下記のような企業が設立された。

南満洲鉄道
同和自動車工業株式会社(車とトラックの製造)
ハルビンの満州飛行機製造株式会社(エンジンと航空機の製造。1938年に満州航空から独立)

南部式自動拳銃製造の奉天兵器廠

鞍山製鉄所(1913年)と改名した後の昭和製鋼所(1933年)

満州工作機械

奉天造兵所

満州航空株式会社

満州中央銀行(国営中央銀行)

南満州鉄道(通称「満鉄」)等。

満洲国の鉱物資源
石炭
主要な石炭の鉱床は撫順にあり、15km3の広さに10億トンの埋蔵量があると推定されていた。 1907年から1908年の間は、その産出量は200万トン以下だった。1919年から1920年では370万トンまで増加した。後に1924年から1929年の間には554万トン、1934年には石炭産出量は800万トンまで増加していた。 石炭の増産は、内部需要の増加と輸出の増加によるものだった。

1934年から1936年の石炭産出量の内訳は、

黒竜江: 40.5万トン

熱河: 45.8万トン

吉林: 26.7万トン

奉天:1,065.6万トン

その他の主要な鉱床としては煙台があり、1923年から1924年には100万トンを産出していた。 1930年の満州国全体の石炭産出量は、1,000万トンを超えた。1941年には、200億トンの埋蔵量のうち、2,000万トンを産出していた。

石油 満州国では、ガソリンは鉱物資源からの蒸留によって抽出されていた。撫順では、1941年に100万トンが生産されていた。熱河の石炭鉱床でも、ごく少量のガソリンが抽出されていた。

鉄 1931年から1932年にかけては、鉄の生産量は、100万トンであった。1934年には95万トンの低質な赤鉄鉱の鉱床が見つかり、別の場所でも23.5万トンの鉱床が見つかった。遼寧では、10億トンの良質な鉄が眠っていた。

アルミニウム 満州国の主要なボーキサイトの原料は、遼寧のアルナイトであった。

その他の鉱物
満州国では、少量ながら銅とマンガンが産出した。また、川から金が採れ、塩湖から塩を採取することもできた。さらに大量のアンチモンも存在した。

日本人の1人当たりの鉄使用量が平均70kgだったのに対して、中国では270トンであった。(アメリカは450kg)

鉄とスチールの精製
1933年、鞍山での鉄の総精製量は43万トンであった。1941年には定期的に175万トンの鉄と、100万トンのスチールを精製できるようになり、1942年の大掛かりな設備投資によって、生産力が360万トンまで向上した。

満洲国のその他の産業
1932年から、その他の産業に対する日本の政府・民間投資も増加していった。

農業用肥料

ダイナマイト等の爆発物

工作機械

電気工学諸分野

重化学工業諸分野

と同時に、家や近代的なビルの建設が都市部で進んだ。

なお、ドイツやイタリアの企業のみならず、フォード・モーターやゼネラルモータースをはじめとした国交を持たないアメリカの大企業も進出し、1941年7月に日米関係が悪化するまで営業を続けた。

満洲の自由貿易地域と港

自由貿易地域: (鉄道でのロシア人との交易のため)

チチハル ハルビン 琿春

自由港: (米英独の貿易商との交易のため)

営口 安東 大連 旅順

1931年には、日本国内の天然資源の総生産額は2億8300万円だった。不足分は海外からの輸入を行っており、それが2億2200万円だったことから、約60%の自給率といえる。
※フォード・モデルT(Ford Model T)は、アメリカ合衆国のフォード・モーター社が開発・製造した自動車である。アメリカ本国ではティン・リジーなどの通称があるが、日本ではT型フォードの通称で広く知られている。1908年に発売され、以後1927年まで基本的なモデルチェンジのないまま、1,500万7,033台が生産された。4輪自動車でこれを凌いだのは、唯一2,100万台以上を生産されたフォルクスワーゲン・タイプ1が存在するのみである。その廉価さから、アメリカをはじめとする世界各国に広く普及した。

上記当事の実績をみると、石炭採掘が主力であったことがよくわかる。当然のことだが、その当事の工業インフラとして石油市場が成熟していないため、石油に注意が注がれていない。それを裏付けるのが1908年に発売さたT型フォードの車だった。
それ以降、戦争と石油と自動車(重工業)発展の三要素が不可欠で、益々戦況が強まったという世界的時代背景である。
そうした中に日本も重工業化が進み、そこに「鮎川 義介」や「井上馨」といった人物が、登場する。また日本の財閥が大きく進展したのもこの時期である。
それらの人物一部を紹介しておく。

鮎川 義介
生年月日 1880年(明治13年)11月6日
出生地 日本の旗 日本山口県吉敷郡大内村

山縣有朋
没年月日 1967年2月13日(満86歳没)
生年月日: 1838年6月14日
生まれ: 山口県 萩市
死没: 1922年2月1日, 神奈川県 小田原市

日産創始者
鮎川 義介(あゆかわ よしすけ〈通称、あいかわ ぎすけ〉 、 1880年〈明治13年〉11月6日 – 1967年〈昭和42年〉2月13日)は、日本の実業家、政治家。日産コンツェルン創始者。満州重工業開発株式会社総裁、貴族院議員、帝国石油株式会社社長、石油資源開発株式会社社長、参議院議員などを歴任した。

明治13年(1880年)、旧長州藩士・鮎川弥八(第10代当主)を父とし、明治の元勲・井上馨の姪を母として山口県吉敷郡大内村(現在の山口市大内地区)に生まれた。

旧制山口高等学校を経て、1903年(明治36年)に東京帝国大学工科大学機械科を卒業。芝浦製作所に入社。身分を明かさない条件で日給48銭の職工となる。その後、当時の技術はすべて西欧の模倣であったので、西欧の状況を体験すべく渡米。約1年強を可鍛鋳鉄工場(グルド・カプラー社)で労務者として働く。

実業家 鮎川義介
1910年(明治43年)、井上馨の支援を受けて福岡県遠賀郡戸畑町(現・北九州市戸畑区)に戸畑鋳物株式会社(現日立金属)を創立(戸畑鋳物の工場のあった土地は日立金属戸畑工場を経て2010年現在イオン戸畑店がある)。

マレブル(黒芯可鍛鋳鉄)継手を製造。
継手の表面が瓢箪のように滑らかであってほしいという思いを込めて「瓢箪印」をトレードマークにし、ヒット製品となる。

1921年(大正10年)、当時としては珍しい電気炉による可鍛鋳鉄製造開始。1922年(大正11年)、大阪に株式会社木津川製作所(桑名)を設立(現在の日立金属三重県桑名工場の前身)。

戸畑鋳物から継手営業・商標権、「瓢箪印」の商標を戸畑鋳物株式会社から譲渡し、継手を製造。その後、先端的な国産初の電気製鋼に成功していた安来製鋼所を吸収合併した。

1924年(大正13年)には農業用・工業用・船舶用石油発動機(現ディーゼルエンジン)製造販売開始。

1926年(大正15年)、株式会社木津川製作所・帝国鋳物株式会社(福岡県若松市(現・北九州市若松区))を吸収合併。合併後東洋一のロール工場と言われる。

1928年(昭和3年)、義弟・久原房之助の経営する久原鉱業の社長に就任し、同社を日本産業(日産)と改称。

久原鉱業は、当時は、第一次世界大戦後の恐慌と久原の政界入りで経営破綻に瀕していた。政友会の田中義一(元陸軍大将)らの再建の懇請に鮎川は渋々応じた。

会社を持株会社に変更し、公開持株会社として傘下に、日産自動車・日本鉱業(同年12月、日本産業株式会社に社名変更)・日立製作所・日産化学・日本油脂・日本冷蔵・日本炭鉱・日産火災・日産生命など多数の企業を収め、日産コンツェルンを形成。

1929年(昭和4年) 戸畑鋳物東京製作所(深川)を新設し自動車用マレブル鋳鉄製造開始。同年4月24日、日本産業の鉱業部門が分離独立、日本鉱業株式会社を設立。

1933年(昭和8年)、自動車工業株式会社(現在のいすゞ自動車)よりダットサンの製造権を無償で譲り受け、同年12月ダットサンの製造のために自動車製造株式会社を設立する。

1934年(昭和9年)、戸畑鋳物・名古屋電燈株式会社に先んじて特殊鋼の電気製鋼に成功し有望視されていた安来製鋼所を吸収合併(この時ヤスキハガネ開発に成功しており、1913年に開発していた高速度工具鋼にも応用が完了していた)。

満州国へ
満州重工業総裁時代
1934年(昭和9年)、自動車製造株式会社を日産自動車製造株式会社と改称。同年『ドイツ系ユダヤ人五万人の満洲移住計画について』と題する論文を発表。

5万人のドイツ系ユダヤ人を満州に受け入れ、同時にユダヤ系アメリカ資本の誘致を行うことにより、満州の開発を促進させると共に、同地をソ連に対する防壁とする構想を、ユダヤ専門家として知られる陸軍大佐・安江仙弘、海軍大佐・犬塚惟重、関東軍のいわゆる「大陸派」(満州進出を求めた多くの軍閥)に立案した(のち河豚計画へと展開する)。

これにより、関東軍の後ろ盾を得る。南満州鉄道の理事だった松岡洋右ものちに河豚計画に参加。

1935年(昭和10年)、戸畑鋳物を国産工業株式会社に社名変更(事業活動の拡大に社名が相応しくなくなったため)。同年、都民に憩の場を提供する目的で伊豆大島に私財を投じて公園を設立(後に東京都が買い上げて都立大島公園となる)。

1937年(昭和12年)、野口遵、森矗昶など当時の「財界新人三羽烏」の一人として、満州国の経済運営で巨大な南満州鉄道が影響力を持つことを嫌った関東軍の求めに応じ日本産業を満州国に移し、満州重工業開発株式会社として初代総裁・相談役に就任。
同時に満州国顧問・貴族院勅撰議員・内閣顧問を兼務した。

当時の満州国の軍・官・財界の実力者弐キ参スケの1人とされた。弐キ参スケとは東條英機(関東軍参謀長)・星野直樹(国務院総務長官)、鮎川義介、岸信介(総務庁次長)、松岡洋右(満鉄総裁)である。鮎川・岸・松岡の3人は満州三角同盟とも称された。

同年、国産工業、株式会社日立製作所との対等合併。鮎川が満州重工業立ち上げのため、 以前から関係のあった日立製作所の小平浪平に国産工業株式会社の経営を頼んだ。

1939年(昭和14年)頃には白洲次郎らと世界情勢を語り合い、ドイツと英仏間の戦争は、英仏の勝利との結論を得る。関東軍との関係悪化から日産グループの満州撤退を検討。1942年(昭和17年)頃に満州重工業の総裁を辞任。1943年(昭和18年)11月17日に藤原銀次郎が東條内閣に入閣すると、五島慶太・鈴木貞一らと内閣顧問に就任。

太平洋戦争後
1953年4月24日に行われた第3回参議院議員通常選挙で当選したときの鮎川義介、世界通信より第二次世界大戦終結後、戦犯容疑を受け1945年(昭和20年)12月に逮捕され巣鴨拘置所に20か月拘置されたが、容疑が晴れる。獄中にて日本の復興策を練る。

1952年(昭和27年)、日産グループ各社の出資を得て中小企業助成会を設立。会長に就任。以後、中小企業の振興に尽力。
1953年(昭和28年)、帝国石油社長、石油資源開発社長。参議院議員に当選。

1956年(昭和31年)、日本中小企業政治連盟(中政連)を創立し、総裁に就任。

その後主として政治家としての晩年を送る。また同年設立された全国中小企業団体中央会の会長にも就く。この間、岸内閣経済最高顧問、東洋大学名誉総長。産業計画会議委員(議長・松永安左エ門)就任。

1959年(昭和34年)、全国区より参議院に再度当選したが、同時に当選した次男金次郎派運動員の選挙違反容疑が高まり、12月に責任をとり議員辞職。

1966年(昭和41年)、持病の胆嚢炎を手術したが、高齢により回復がはかどらず入院が長引く。1967年(昭和42年)2月13日、合併症となった急性肺炎のため駿河台杏雲堂病院にて死去。享年86。多磨霊園に葬る。

家族・親族
父:鮎川弥八(長州藩士)
母:ナカ( 井上馨 の姉常子と小沢正路の娘)
姉:スミ(高知県、実業家木村久寿弥太に嫁ぐ)
妹:キヨ(山口県、実業家・政治家 久原房之助 に嫁ぐ)
妹:フジ(福岡県、実業家貝島太市に嫁ぐ)
大叔父: 井上馨 (長州藩士・政治家)
(資料ウィキぺデア)

本稿より抜粋 

http://blog.livedoor.jp/raki333/preview/edit/8c09fe00d5c7c53fdced4e4a46015686

関連記事
http://galapagosjapas.blog.jp/archives/4227957.html

※本稿は、2022-06-18 07:43:47付 に書きとどめたものである。本原稿は、もっと古い年月に書いたものだったが、古文書と同様、順次送って行かないと、記録と云えでも時間に埋没してしまう。

※冒頭の描写、今の「東京ディズニーランド」は、東京都ゴミ処理場「夢の島」として海浜埋め立て工事の国策に従って、海から土地がうまれた、まさに錬金術だった。
その当時の浦安は、東京湾魚介類漁師として江戸時代から、築地食材を賄っていた。当然、それを止める訳だから、漁場の魚業権をめぐって激しい闘争があった。結果的に高額保証のすえ、今のディズニーランド、そして浦安リゾートが出来て、当たりの海浜風景を一変させた。
いま電車で見る風景がそれだ。勿論、その下は東京都のごみ集積物で覆われている、という実体を見て知り実態を記憶する者はいなくなった。後10年もすれば、歴史の記憶から消される。

築地市場移転閉鎖が決まり、そして近代設備豊洲市場が開場した。その下には、戦後薬物処理猛毒砒素など埋設して封印したが、うやむやの内に政治処理され何事もなかったように万事、すべてが移譲され世界の豊洲として名を馳せている。何事も「知らぬがホトケ」、それで社会は円滑に回っている。



PIZZ PIZZ ロゴ 


ppp200aa

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?