私が愛する「暇」について考える
ここ2ヶ月ほど、スケジュール管理をしくじり、それはもう慌ただしく過ごしていた。
やりたいことの輪郭がうっすら見えてきて、これまでみたいにウダウダ立ち止まっている理由がなかった今年の春の私。
「人生は短い!あれもこれもやりたい!足踏みしている時間はない!」と豪語し、脳筋思考と勢いで予定を詰め込んだけど、受け皿たる私のキャパシティが急に広がるわけもなく。
今年の夏の私は、適度に体を壊したりやむを得ずさぼったりキャンセルして時間をつくったりと、あらゆるものを取りこぼしながら、それでも進むしかない泥船だった。
最近はようやく少し落ち着いてきたので、振り返ってみる。
何がそんなに忙しくしてたのかと振り返ると、習い事複数、そこでの宿題時間の捻出、予習復習、どでかめの遊びの予定の幹事として情報収集・予約、閑散期のはずがなぜか膨れ上がる残業、体力が尽きて寝込み予定外のロスタイム……
ピーク時には、移動時間も総動員しながら、どうにか毎日のコマを進めていたようだ。たぶん、人生で一番忙しかった数週間があった。
(こんなに忙しくする機会はそうそうないぞ!と思い、ピーク時は毎日の過ごし方を記録していた。「本当は早起きして宿題やりたかったけど回復優先で断念、8:30起床」とかメモしている。気の毒だ)
もともと体力に不安があり、かなり余白をもった時間軸で生きていた人間なので、好きで必要だから入れた予定たちとはいえ、このパツパツスケジュールはかなり苦しいものになる……と思いきや、振り返ると一概にそうともいえなかったのが今回の収穫の1つだ。
忙しく常にやらねばならないことがある時間は、のんびりゆったり過ごす時間にはない、充実感があった。
必ず何かしら前進できているという、安心感も。
また考える余白がないので、無駄に人生や自分についてぐるぐる悩むこともなかったのもよかった(私の定番のダメループを回避できた)
今回はさすがにキャパシティを超えており、結果的にそれぞれの予定を疎かにしてしまっているのはやはり反省だけど、適度に抑えられたなら忙しいのもあながち悪くないかも、と思えた。
とはいえ、だ。
自分史上一番忙しい日々を送り、充実感を味わいながらも、私はどうしようもなく暇な時間が恋しかった。
つくづく、私は暇を愛する人間なんだな、と実感した。
暇ってなんだろう?
きっとそれは、自分で時間の使い方を選べる自由があること。
それを指して私は暇と呼び、愛しているのだと思う。
その日の体調、気分、天気、モチベーションによって、私のやりたいことコンパスはよく振れる。
思いきりだらけたいときもあれば、知識欲が高まり何時間もインプットできるときもある。頭の中のぐるぐるした思考をnoteで書き散らしたいときもある。イラストを描いてみたいときも。少し凝った料理に挑戦してみたいときも。気になっていた映画を見たいときも。
人と過ごしていて楽しいときも、もちろんある。
けれど、その時々でこれらを選び取れる自由を与えてくれる暇が私は好きで、丸一日誰とも約束をしていない休日の朝は、最高の開放感・万能感に満ち溢れている。
ああ、今日は何しよう?あれもしたいし、これもしたい。
何してもいいんだ。何でもできる!
とりあえず、秋の私には少しは時間ができる予定なので、その「暇」にどんなワクワクすることを詰めようか、候補が目白押し。今から楽しみで仕方がない。
行動力溢れるパワフルな過ごし方も楽しかったし、計画的に予定を立てて効率よく活動できることにも魅力があるけれど、私はやっぱりもう少し、その時々の自分の振れ幅を許せる自分でありたい。
これはきっと、休日の過ごし方だけでなく、仕事も含めた生きる時間全体をどう使うか、という話。
私の人生の使い方には、まだまだ伸びしろがありそうだ。
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