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10歳から捨ててきた「自分らしさ」を、20年越しに拾いに行く話

10歳の私へ、20年後の私より。

ゼロか百か、白か黒か。
どうも私は昔から、二極化して考えてしまうくせがある。

物語が好きな子供だった。
アニメも小説も、わくわくしてかっこよく描かれる物語が、今でも好きだ。

でも、成長するにつれ、どうも現実は物語のようにはいかないらしい、と幼い日の私は気付き始める。

夢を叶えるための努力の道のりは、描かれるよりも言葉で語るよりも、本当につらいものだし。
物語では誰かが取りなしてくれる友だちとの喧嘩でも、自分の複雑な心情を理解して助け舟を出してくれるような、都合のよい素敵な第三者も、妖精も、ネコ型ロボットも現れないし。
私にだけ訪れる運命。私にだけ託される能力。そんなドラマチックなものは、きっとない。

そんなことに気付き始めた10歳の私は、この先の人生がどうやら結構苦しいものであることに気付いてしまった。
そして私は、苦しい思いをしたくなかった。
私は、その先の幸せを。可能性を。早計にもざっくりと、諦めた。

この時の思いは、その後20年もの時間を縛る呪いになった。

本当は踊るのが好きでダンス部に入りたかったけど、地味な性格だし運動神経はないしスタイルも悪いからと諦めたこと。

本当は心理学に興味があったけど、数字が苦手な私は統計が必須と知り、それに就職にも役に立たないと思って別の学部を選んだこと。

本当は就職したい業界があったのに、家の期待や一般論でやるべきと頭で選んだ仕事で、結果的に心を病んだこと。

本当は少し得意だった英語を使える自分でいたいけど、ネイティブレベルになれない自分も、努力しようと思えない自分とも向き合いたくなくて、もう全然使わないからわかんないやとヘラヘラしてても、本当は小さなプライドを抱える自分がいて、できない今がすごく悔しいこと。

今振り返ると、わかる。
そりゃ苦しいことや嫌なこと、面倒なことは起こるし避けられないけど、それを呑んでも掴みたい夢や能力や喜びがあるんだと。
リスクを取らねばリターンも得られないのだと。

「私ならできる、私ならやれる」
そう思えずに、挑戦を避け続けてきたのが今の私だ。
何者にもなれなかった。

私は、10歳で諦めて捨ててきたあらゆることを、今、20年越しに拾い集める営みをしている。

ダンスは気持ちが落ち着いた代わりに、別の形で身体表現を続ける。

心理学は、お金になるか・人に評価されるかという思いを捨て、純粋な興味で本を読むところから学び直す。

もともと望んでいた職種ではないけど、関心があった業界に転職して、ある程度満足している。

英語は、まずは洋画を観るところから初めてみようかな。楽しめるコンテンツの幅の広がりを、素直に喜べる。

本当であれば、成人するより前に進めていたはずの道。選び損なった道。得られたはずの経験値、スキル、体験の数々。
でも、今からでも遅くないよね?

というか、結局、捨てきれないのだ。
なし崩し的にあきらめを重ねて至った現状に全く満足できていないから、あのときああしてれば、と未練がいつまでも捨てきれない。

随分遠回りをしているし、まっすぐ真っ当に最短距離で道を進めている人をみると、羨ましくて、浪費した戻らない日々が悔しくてたまらない。
でも、今の私の回り道が、いつか伏線になって、10年後あたりの私を支えてくれることを祈っている。

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