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ランナーズディスタンス

この世に生まれ落ち
生きる過程は美味いご飯を食べ
暖かい布団で寝て
外の陽射しを浴び‥
あとは‥それだけ、だ。

日々の生活は忙しい日の連続だ。
同じ朝 会う人達 鳴り止まない電話 陰口を言い合ういつもの社員‥
こういった日々を楽しいと思うかどうかの余裕さえなく歳を重ねてきた。あっという間の40代だ。
僕の歳の取り方は人に合わせてきた生き方だったと思う。無理に協調性にピントを合わせ社長や上司の機嫌をとり、嫌われないように付き合いにも身銭を削って参加する(ゴルフや接待)。いつも家族は後回しだった。
そんなこんな小さな努力をしても結局は得をするのは自分以外の人達だ。それが今頃になってわかってきた。

社会とは何ぞ
会社とは何ぞ
家庭とは何ぞ‥
要は生きていく上での所属する組織の中ってどこにいても居心地が悪い。なぜだろう。

考えてみたら頭が重くなってきた。
考えないようにしよう。
いままで通り柳の枝のように流されるまま生きて行くのが楽だ。風に揺られフラフラと。

ストレスの流し方は未だに下手くそだ。
些細なストレスにも敏感で頭にくる。
ストレスを感じた時は思考能力が止まる。
不器用な人間だ。
ある程度ストレスが貯まると僕の場合〝走る〝事でストレスを放出する。
それはまるで膀胱に貯まった水分を吐き出す作業に似ている。
吐き出さないと病気になる。漏らす。
そういったものだ。

日に日に僕の走行距離は伸び
10キロ走れるようになり 
20キロ走れるようになり
今ではフルマラソンを完走できるほどにもなった。
今年は100キロマラソン大会にもエントリーしている。
まぁ完走は無理だろうけど。
世の中にストレスマイル制度みたいなのが有ればいいのに。溜まっては発散した度合いによりマイルが溜まり海外旅行や豪華家電製品と交換できます。のような。
今それがあるなら、僕のマイレージはとっくにイギリスぐらいには行けたかもしれない。
僕にとって走ることは僧侶の座禅を組んでお経を唱える行為に似ている。
社会の混沌とした下界から逃れ”無”の世界に没頭できる時間。。何も考えない。。欲もなく、暑い寒いもなく、笑う、泣く、痛い、もない南極のように真っ白で汚れのない世界。
僕はその世界が無いと生きていけないのかもしれない。

僕と同じような生活をおくっているひとは沢山いるだろう。それはRUNに限らず旅行や温泉、音楽や食事にオアシスを求めていたりするのだろう。
それが僕の場合→RUNなのだ。
知り合いが言う→「なんでいつもそんなハードな事しているの?何もそんなに走らなくても楽しみは他にあるでしょ。」と。
そりゃイチ他人の価値観だ。
僕は僕なりの価値観で動いている。シューズ一足だけあればふらっと気が向いた時に走る事ができる。
僕には”休む”より走る方が幸せなのだ。
それは雨が降ったら雨宿りに駆け込むぐらい僕には普通で単純な行為なのだ。



ランニング中どこから飛んできたのか小物入れを発見。一旦通り過ぎたが戻って再確認。中身は何だろう気になる。色々と良くも悪くも想像してしまう。ここの大橋のてっぺん上りきったとこりには実に様々なゴミが散らかる。なぜに橋を上りきったてっぺんにゴミをばら撒かなきゃいけないのか僕は意味がわからなかった。風が強いから海にでもゴミが飛んでいくとでも思っているのだろうか?もしそうだとしたら何と不順な行為なんだ。ダサすぎる。

走ると色んな事が見えてくる。
道路の轍。冬期の塩カルで傷んだアスファルト。
雨で土砂が流れて溜まったぬかるんだ箇所。
色合いが華やかな夕時。
涼しい風の時があれば
ぬるい湿っぽい風もあり
無風の時も、痛々しい刺さるような冷たい海からの風の時もある。
それは人の感情のように様々だ。その”人”の感情に僕ら人間は一日を振り回される時もある。
他人の一言で一日が嫌になり、次の日も重い腰を上げて会社や学校へ向かう日もある。
なぜ人は人として励まし、手を取り合い肩を叩き合って喜び合うことが稀なんだろう。
人を否定し、けなし、自分の思い通りに行かないことを他人のせいにする事の方が断然に多い。
人の生活が便利になっていくほど、世の中は比例する様にどんどん人は自己中心的行動をとっていくような気がしてならない。

ノアの方舟の話。ノアの方舟に乗る人間は最低人数だったという。方舟には動物や植物、虫を優先し人間は後回しにされた。それは人間が愚かな生き物であり人間が悪い事を起こす発端になるからだと。確かに人を動物と同じカテゴリーに分類するとなれば、人が同じ人を傷つける行為をする動物なんて他にいない。他人の足を取る行為をするのはどこにもいない。人間だけなのだ。人間が地球上にいる限り人と人との争いは必ず有り、傷つけ合う事も無くならない。それを僕ら人間はお互いを認め生きていかなきゃならない。しかし、どうせ同じ人間。同じ時を共有する生きとし生きるもの同士なら、力を共有し、知識を共有し、助け合いながら生きて生きたい。約百年の1度の命をより良く使うために。
弱いものがいたら助け
歩けないものがいたら背中を押してやり
箸を使えないものがいたら箸の使い方を教えてやり
硬いものが食べれないものがいたら、砕いて食べさせてやり
目が不自由なものがいたら目になってやる。

本来のあるべき人間の姿をこの百年たらずの人生でかき集めて完遂する時を僕のゴールとしよう。そう決めた。

走る行為は時に何か空から舞い降りてきたような不思議な考えを与えてくれる瞬間がある。
おそらく人は昔 走る事で移動し 走る事で狩をした。
こうやって走り、色んな事を考え 今に至ったんだろう。
走ると前世の記憶が呼び戻ってくるのか
ちゃんとした人間にリフレッシュされるような気がしてならない。
人間たるもの。
人間とは。。色々考えるとキリがないが、

とりあえず僕にとって走る事が人間であることの行為のまずひとつ。と考える。
二足歩行
二足”走”行。で42.195キロも走れる動物は人間だけしか出来ないことだから。。。

#創作大賞2023  #エッセイ部門

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