刹なさの反則技(中村中「友達の詩」)
ちょっと前の日曜日に、
ラジオ番組「安住紳一郎の日曜天国」を聞いていた。
私は、安住紳一郎というアナウンサーの人間臭さが好きで、
ワクワクした気持ちでラジオを聞き始めた。
今日は、なんか低空飛行なトークね、
なんて思いながら聞いていたら、
不意打ちに中村中の「友達の詩」が流れてきたのだった。
この曲を聞いた後、
切なくて刹なくて、
なんだか泣けてしまった。
この曲が発表された当時、
すごく話題になったかと思うんだけど、
その時は、
なんとなく聴いて、
なんとなくいい曲だな、
なんて思っていたような気がする。
ような気がする、
というくらいで、
なんの思い入れもなかった。
2006年の発売なので、
もう10年も前のこと。
そして、10年経つと、
音楽の聴き方も聴こえ方も変わるもので、
心はうつろうものなのだなあ。
私はもう、
10年前の私を知らない。
私はそれから、
日曜日にこの曲を聴いて以来ってことなのだけれど、
この曲を何度も何度も聴いては、
涙を拭って、
こんな、
こんな、
こんなに、
切ないなんて狡いよ、
と、
何度も何度も思った。
中村中にとってこの詩は、
きっと私が思っているのとは、
違う思いの中にあるのかもしれない。
けれども、
私には、私にしかない切なさの中で、
この曲を聞ければ満足だと思う。
あわよくば、
私には、
彼女ほどの葛藤も苦しみもないのだけど、
けれども、
この切なさに共感したい。
私に切ない恋などあっただろうか。
いや、あったのだ。
あったのだから切ないのだ。
ふと、真夜中に大号泣しながら歩いた道のことを思い出す。
来るはずのない返事を待っていた過去の私を思い出す。
本当に好きなものは、
壊したくないから触れられない、
だから大事にしまっておきたい。
これからそんな恋をするのだろうか。
そういう恋はつらいから、
もうしたくない、そう思う、
それでも、
きっとまたしてしまうんだろうか。
また、たくさん泣くのだろうか。
そんなのはいやだなあ。
いつの間にか、いろんなことを妥協して、
寂しい心を埋めるだけの恋をするようになって、
楽しいだけの、落ち着くだけの、
それだけの恋愛でいいなんて、
そんな風に、いつから思うようになったのだろう。
友達くらいでいいなんて、
きっと、私にはもう言えない。
もう傷つきたくないもの。
大人のふりをして、
好きになったふりをしたほうが、
今ならきっと楽。
振られても、
笑い話しにできるくらいのほうがずっと楽。
だからやっぱり、
友達くらいでいいなんて、
私にはもう言えない。
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