シリーズ 北海学園大学新聞の戦後史:第0回(後編) 北海学園大学誕生前夜
はじめに
今回は毎月一日発行という表記ながら前回の発行から49日経過した1950年12月20日に発行された北海短期大学新聞第2号を取り上げる。この号以降はどうやら(2年間の沈黙を経て)北海短期大学新聞は北海学園大学新聞と名を変えるようで、その意気が「捨てない 四年制大学の夢」という記事にも現れている。
ちなみにこの新聞のバックナンバーは大学図書館の閉架にあり、貸出可能である。
(注意)
・原則として歴史的仮名遣いと旧字体は現在のものに改めて表記している
・文中の「●」は判読不能を表す
北海短期大学新聞第2号(1950年12月20日)見出し
(表面)
・教職課程設置 二十六年度
・悩みの就職対策=小林・野口両教授奔走=
・第二回育英資金応募者 僅かに九名
・警句:幸福
・新しい構想(阿部利雄)
・冬休み決る(ママ) 十二月十八日から一月二十日迄―昼夜同じー
・捨てない 四年制大学の夢
・冬休みを控えて アルバイト対策
・労管研究発表会行わる 研究対象は帝国製麻
・自治会レポ 委員長 桜井淳
・沈黙の自治会
・赤は居ない本学 資本家タイプ
・部告
・自治会第一部会計報告 納入者少く活動出来ず
・しんり 漱石全集より
・学徒援護法案提出 札幌にも学生会館及び国・公営官舎設置か?
・まだある 授業料未納
・三日で1屯を燃す
・好調の出席カード
・何故に貸出されないか?オープンは不可能か?
(裏面)
・佐藤理事●横顔 往年はマラソン選手 飯より好きな競馬と植木
・アルバイトから 喰うために生るな
・頭痛二題!!(拝聴される騒音・早くほしい専任教授)
・文芸 一雫の露(随筆)
・或る第二芸術家の云い分 (経2)長谷川
・素晴しいテーナの持主 ●●●ニカの田中峰太君
・校舎はきれいに
・(完全に判読不能)
・無関心な週間行事
・映評『雪婦人絵図』原作 舟橋聖一 演出 溝口健二
・時評⦅国際貿易の動向⦆石黒和弘
・教室の害虫
・其の後のライラック
①新しい構想(阿部利雄)
これまでの北海学院のあゆみやある夜学生の相談を軸に話の進むこの記事の本題(?)は新設コースについてだろう。まず新コース候補を例によって列挙する。
(一)経済政●(策)面を究むるコース
(二)経営面を深く掘り下げるの
(三)経済学を会得して更に本道開発に役立つ工業論を探求するコース
(四)教職員養成の過程とを併列(ママ)して進もう
英文学に法学に工学部っぽいのまで存在した北海学院時代とは違い、経済学しかない北海短期大学。そのコースは教職課程を除けば現在の経済学部経済学科・経済学部地域経済学科・経営学部経営学科の母体となっているのが面白い。当時は(理論)経済学と地域経済学があまり分化されていなかったようだが、これは当時の北海道という地域が「日本のホープ」、つまり“帝国”のラストコロニーとして期待されていた時勢を反映しているのだろうか?
北海道開発の例として真っ先に『資源開発』が挙げられているのが資源収奪元と過剰人口押し付けの地として期待されていた北海道の開発の後世の結果を暗示しているようだった。
②部告
学園当局からの支援により第二号を発行出来たことを感謝する記事。
その前に全道に五つある短大全ての知名度がほぼ皆無とした上で、「本学の社会的地位」を向上させるために短大新聞があるとしている。
この頃は紙面には新聞の値段が記されていないため、この新聞が有料だったか否かは判らないものの、少なくとも現在のように無料で頒布されているにも拘らず、新聞会部員諸君が大学構内に立ち必死に道行く学生の手に押し付けようと奮闘している様からは遠く、社会全体に向けた新聞づくりを多少は意識していたことが伺える。
だからこそ大学新聞に宣伝文句のひとつも無い財団法人北海学園の広告が掲載されていたのかもしれない。
(勿論先述の『御支援』が形式的には広告掲載料の形をとっていたため広告を掲載した可能性もある)
また、この頃の学校の社会的地位を高めるための手段としてスポーツが挙げられている。だからこそ数年後に「学力が及ばず北大に行けなかった本学学生の自尊心を~」とか言って北大と総合定期戦の機会を持とうと奮闘したのだろう。結局それは叶わず代わりに仙台の東北学院大学との定期戦が一度は東北学院の決議で流れながらも実現され、一度実質的に引き分けた年を除き65年間敗け続けているのだが。
③頭痛二題!!(拝聴される騒音・早くほしい専任教授)
これは記事本文が軽妙だし、短いので『拝聴される騒音』は全文引用してしまおう。
豊平の一角に産声をあげた北海短大、生れて間もなき幼き児故残念乍らその名を知らぬ者数多し。然し、五十年、三十年の伝統を持つ北海高札商と同じ北海学園にあると言えば、世人はなるほどとうなづき下さる。短大の校舎は札商の一部を占拠致しおるわけ、割込人の分際に差出がましい事を申す様であるが、札商の中等部のオボッチャン達短大の廊下を遊場と感違い(ママ)して御座るらしく仲々にぎやかであるそして又授業中何度からともなく流れ出るラッパの音も妙なる楽の音と拝聴せねばならぬわけ。
さて札商とは札幌商業高校のことで、北海短期大学はこの校舎の一部を曲がりしていたわけだが、札商の中等部の生徒を「オボッチャン」と呼んでいるのが面白い。
現代の東京在住の子育て世代の悩みの種である中学受験と今は縁遠き事実上の公立全入の街、サッポロにもかつては私立中学が存在したわけで、彼らは当然のようにオボッチャン呼ばわりされていたのだ。
商業高校とは将来の「潰し」がききにくい高校と今では認識されているが、戦前の札商は商人のご子息の通うところだったようなので、早いうちから丁稚奉公の代わりに新制公立中学校なんぞより、札商に通わせてしまった方がよいと思う親御さんがいたとしても不思議ではない。
結局、「商人」になるためには高学歴でなくてはならんということになり、中等部どころか1999年に商業科そのものを廃止せねばならなかった「札商」の名が最後(2017年)まで残っていたのは皮肉にも北海学園大学だとか。
④教室の害虫
これについては特に言うべきこともないので全文転載するに留める。この記事を書いた者に「此の学園から私語が絶えるのはちょうど70年後のことですよ」と伝えたらどういう反応を見せてくれるのだろうか。
講義に如何に良くともまずくともその講義が始まって一時間一杯私語を続けるもの、又極端な者に至っては将棋をやってる、チャーチルまがいのサインを学生間で送り時間の途中で共に立ち出で室外で話したり、ドタバタと走ったり、講義のさまたげをする者があることは真面目な学生の害虫となり良識顔をしているのに驚く。