伏線

入社一年目、上司から異動を命じられた時の気持ちを、私は既によく知っていた。突然言い渡される辞令。その瞬間、馴染んだ生活が一変する。私だけがこの場から離れて不在となる。いなくなる。だけどもう既に決まっていることで、それに従うほかはない。衝撃と諦観。思い出した。転校する時の気持ちとまったく同じだ。小学生の頃、年度末に近づくと、両親が改まって話があると言い、引越の予定を伝えられた。馴染んだ教室から、私だけがいなくなる。だけどもう決まっていることで、それに従うほかはない。衝撃と諦観。慣れていた。いつものことだった。いわゆる転勤族で、しばらくは県内を転々とすることしかなかったけど、住んだ街は容易に行き来できるような距離ではなかった。転校が嫌で泣いたことはなかった。だけど、生まれてからずっと「帰る場所」であった東北の地を離れなければいけなくなった時、さすがにショックで、落ち込んだ。上京して8年近くなる。8年間ずっと同じ部屋を借りて、暮らしている。異動があっても、転職しても、私は当たり前のようにこの街のこの部屋にいて、転居することもない。どうしても一度やってみたかったのだ。好きな土地に好きなだけ身を置き続けるという経験をしてみたかった。その結果、今まで住んだどの家よりも長く、今まで住んだどの土地よりも長く、ここで過ごすことになった。自分でここにいることを選び過ごした初めての土地。数駅隣に住む友達。歩いて行ける大好きな飲み屋。顔を覚えられてる駅前のマック。ここにいると、実家がある街には感じない「地元」という感覚に守られる。絶対にここで死にたくない、という思いで、愛着のない田舎町から東京へ出てきた。ここでなら人生を終えてもいいと思える場所や瞬間を探し集めながら暮らしているんだろうなと思う。住所のことだけではなくて、働く環境も、付き合う人間も、手に取る本も、映画も、音楽も、心の遣いみちも。急に全部が終わってしまうことを知っているから、「良い終わり」をいつもどこかで意識して、それに執着しているのかもしれない。「良くない」選択を全身で拒絶してしまうのは、そういうわけかもしれない。好き嫌いが明確であることは、自分にとって何が良く影響し、何が不要なコストであるかを知っているということだ。必要・不要の別は、「最終的な自分」にとってどうかが基準となる。良く終えるためにすべて選択し、物事を進める。その頑なさが人生をややこしくさせているのかもしれないけど、どんだけねじ曲がってもいい。必ず良く終えてやる。そのために、一つひとつを自分の手で選択していく。先の展開は分からなくとも、布石を敷いておく。そういう死生観のもとで生きている。