26歳、無職になる。彼のスネを齧って生きている。
私の自己紹介
26歳、女、背は小さめ。正義感が強くて怠け者。本音と建前を使い分けきれない、よく泣く。そして、3年間、会社員をして今無職になっている。
振りかえるとこんな感じ。
浪人して受かった大学で、教員免許を取得。そのまま教員になるよりも冒険してから教員になりたいと思って(採用試験で不合格になったから、就活してただけ。)東京の教育ベンチャー企業で働く。
ベンチャーだと思っていた会社が、20年も続く零細企業だと働いて2年目にわかるようになる。
東京、新しいことにたくさん挑戦できる場。
だと思っていたが、
私は、40代のベテラン選手が突っ走っていく様子を、傍で応援して水を補給する程度でよかったのに、42,195キロ一緒に走らされてるような、無理ゲーに感じた。ということで東京OL旅に、終わりの鐘が鳴った。
こんな感じで、ここまでつらつらと話を書き留めているが、
細かい話は、また気が向いた時に書き記すとする。文を書くのがそこまで得意でないのに、最初からぶっ飛ばさないとを決めたので、ご了承あれ。
その後、教員になり子どもと関わりたい(遊びたい)と企み(考えて)、フリースクールという規制が少ない環境で教員になる。
上の経営が難しかったのか、薄給だったのか分からないが、準備するものが沢山あって、
任される運営部分が難しかったこと、そして何よりもコロナになり娯楽ができずに自分を見失い、
最後には、自分の誕生日の日に生きたくないと願い、
パートナーが作ってくれた美味しい料理を食べながら泣いて泣いて、
通勤する道すがら、早くこの世界からいなくなりたいと切に思っていたところで、もうダメだった。
仕事を終えて、
母親に「帰って来なさい。何も気にしなくていい」と優しい言葉に甘えた。
甘えて、甘えて、立つ鳥後を濁しまくって、仕事を1日でやめる手続きをし、パートナーに戻ってくる日を決めずに、実家沖縄に急遽帰ることとなった。
不安だった。
何度も飛行機のなかでトイレに行った。
(真ん中の席なのに。廊下側の方、すみません)
それが、実家だと
衣食住があり、綺麗な海があり、鳥の声、のんびりと過ごす実家近くの「人の生き方」を触れるうちに、パワーが戻ってきた。
そして、嬉しいことがあっても、よく泣いた。
例えば、
ドライブに行って、気持ち良すぎて、感動して泣いている私を見て家族が笑った。
そんなひとときが、最高に好きだった。
元気になった私は、婚約者のパートナーとつくっている際中の家族という巣箱に、もとの巣箱に帰ってきた。
働く気持ちになれなくて、今は、働いて貯めた資産(株やら仮想通貨)を切り崩し、彼のボーナスで貯めた生活防衛資金を切り崩して生活している。
何より、今の環境で見つけた自分の趣味やこだわり、感性が好きだし、
家族が大切だと気づいた。そして、今、わたしはここに生きていて良いと気づけた。
「今後は?」と聞かれるのが、一番まだ、不安だけど、
この1ヶ月を与えてくれたことに感謝している。
沖縄で一番好きになった言葉、それは
『ナカユクイ』
※写真は、自分が小さい時の写真です。
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