サクッと表現する健康 (a life/大貫妙子、坂本龍一)

坂本龍一が亡くなってしばらく経つが、評論などはあまり読まずに、どういう存在だったのかなと、モゾモゾ考えている。

大貫妙子と坂本龍一による「UTAU」収録曲「A Life」では「汗を流そう、ごはんを食べよう、ぐっすり眠ろう、つま先まで」と人間らしい充実した生活が描かれているが、その中に「見たら助けよう、手を伸ばして」も含まれているのがよい。それも人間らしい健康な生活に含まれる、という大貫の毅然としたLife観。

いっぽう電車の車内では、高齢者に席を譲らない人が圧倒的に多い。色々理由はあるだろうが、体力とか親切心の多寡ではなく、誰も大貫が描いたような生の充実の中にいないという、心身の健康に属する問題かもしれない。

もうひとつ、表現力の問題ではとも思う。表現によって人と関わりができることを物凄く恐れている。人をかき分け高齢者に声を掛ける「表現」の心理的ストレスが「断られたら気まずい」など結果の心配よりも先立っているように思える。

自分がデザインや美術などの表現に関わってきて、よかったと思うことのひとつに、差し迫る局面に際して、えいやと身投げするように表現する心が備わった、ということがあるかも。
元々表現に臆病なタイプの人(自分だ)は特にそうだが、作品を公にすることは、精神が丸裸になるようでとても恥ずかしい。美大受験ではよくあることだが、描いたデッサンが自分で下手だとわかっているのに、他人と並べて講評される。技術の問題ではなく、雑さ、弱気さ、検証の足りなさなど、全ての未熟さが絵でバレる。こんな屈辱はなかなかない。

モチーフや課題があるならまだしも、オリジナル作品を発表するともなれば、つまらん奴だと人格ごと否定される危険性もある。しかし、学んでいる、作っている以上は締切もあるから、えいや、と出さざるを得ない。そんなふうに人目に晒されるたびに、未熟だけど今の自分はこういう状態だから仕方ないでしょ、という決然とした状態が少しは生まれた気がしている。

その発表時と似た力を、高齢者に席をゆずる自分の中に感じる。これは親切心の量とは関係ない。他人より高齢者を気遣っていると自分では思えない。何もしなかったらカッコ悪いという自意識の力もあるが、その時働く力のうち重要なのは「瞬発的に、パッと恐れず表現して、結果を気にしない力」ではないかと思う。大げさだが「結果がどうなっても知ったことか」というプチ身投げが起こっている。「勇気」という言葉は日常で使わず、少年ジャンプのスローガンの中にしかいないようだが、実は表現する行為の中に結構含まれていると思う。

そして、表現して人と関係することを恐れないのが大貫の描いた健康な状態なのではと思う。坂本龍一という人に対しては、音楽とは別に、昔から「出たがりの人、カッコつける人だな」と思っていたが、今思うとその社会的な活動は、やらなきゃカッコ悪い、やってあたりまえという意識と、それをサクッと行動に移す、健康な表現力みたいなものが支えたのかな、と感じる。今では醜悪なSNSに見張られて誰もが表現恐怖症になっているから、サクッと表現をリアル世界の中でやっていくのがいいね、と思っているのです。


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