『The Last of Us Part II』"PS4史上最高傑作"
私は前作『The Last of Us』の大ファンで、DLCを含め何周もプレイし、特に最高難易度"グラウンド"での「究極のラスアス体験」は史上のもの。不満など一つもなく、一本道のストーリーゲームなのに、『ウィッチャー3』と同等の時間プレイした。
そして、本作『The Last of Us Part II』だが、"大傑作"だった。「PS4史上最高傑作」と言っても過言ではないし、これ以上のゲーム体験をしたことは、今までにない。
本記事は重大なネタバレを含みます。プレイしていない人は読まないでください。
①ゲームとして
最初にゲームとして。前作を遥かに上回る美麗なグラフィックに、回避等の戦闘面での選択肢の追加。マップの広さ。そして、何よりもロード時間の短さは、何度死んでもストレスフリーで本作を楽しむことが出来た最大のポイント。
前作をグラウンドで周回する私が、本作をプレイしていて思ったのが『ラスト・オブ・アス』に求めているものは緊迫感や緊張感、そして臨場感だった。
私は、本作を難易度サバイバル、可能な限りHUDもオフにしてプレイした。これによって齎されたものが前作のグラウンドに当たる「究極のラスアス体験」。しかも、前作では難易度ノーマルでプレイした後のグラウンドだったので、初見で最高難易度のプレイは出来なかった。しかし、本作ではそれが可能だった。一体どこに敵がいるのかも、自分の体力がどれほどあるのかも、弾が何発込められているかも分からない、極限の緊張感では、高い現実味のもとで本作をプレイ出来た。本当にそのスリルがたまらなかったし、ゲームをしているだけなのにひどい疲労感に襲われ、無理にでも休憩を挟まなければ継続出来ないほどだった。
ストーリーうんぬんの前に、この「究極のラスアス体験」をしているだけで、常に満たされ昂揚感で溢れた。前作をやり込み、操作に不自由さがないがためにこの選択が取れた。序盤(ジャクソン)は少しHUDもオンにしたが。
本作はゲームの幅を広げ、ただ"楽しい"や"面白い"とは違う、新たな領域へと足を踏み入れた。選択肢は無く、プレイヤーは操作キャラと共に、その時を過ごす。これがプレイヤーに与える没入感と衝撃は唯一無二。映画でもアニメでも、ドラマでも、本でも到達出来ない領域。それがゲームであり本作だ。常に感情の置き場が無く、揺さぶられ続けるストーリーテリングは実に素晴らしい。
本作はマック・クエイルが戦闘時の音楽を作曲し、それによって齎される興奮はたまらなかった。
エリー編二日目のヒルクレストで流れる"The WLF"は、特に素晴らしい感動を作りだした。私が彼のファンで、『MR. ROBOT』を観ていたことも多少影響はあるとは思うが。
②本作のテーマと"エリー"
映画でもドラマでも必ず"テーマ"が存在する。本作のテーマの一つは"復讐の連鎖"。
こうした"テーマ"の裏には「非難する人々や物事」が存在する。"女性蔑視"がテーマなら、女性蔑視をする人々を非難しているし、"黒人差別"なら黒人を差別する人々を非難している。こんな単純に書いて申し訳ない。
では、本作が非難している人々とは何か。あくまでも私の見解だが、「何かに固執し、周りが見えず思いやりに欠け、取り返しのつかぬことをするような人々」。要するに、「優しさに欠ける人、配慮に欠ける人」。SNS上で、山ほど見かける。
そして、本作における"そういう人"は誰かというと、"エリー"だ。そう"エリー"なのだ。ジョエルを殺されたことによる、復讐心に捕われ、余裕の持った行動が取れなくなり、エリーはジョエルを殺した理由すら聞かず、かなり一方的に殺し、また同じ組織に所属しているという理由だけで、ウルフの者をひたすら殺していく。(プレイ次第では、なるべく殺さない方法もとれます)。
主人公を非難する対象として描く作品は、そう多くは無い。普通なら悪役や敵。本作でいうならアビー。しかし、そうではない。
なぜノーティドッグは、アビーの視点でエリーと戦わせたのか。その解答はまさしくこれだと思っている。エリーは敵であり悪役だった。多くの人にはこの意図が理解出来なかったと思われる。それもその筈、本作はエリーの物語だと思ってプレイしているのだから。エリーに感情を寄せ、共感する。序盤そういった描き方をしているからこそ、客観的な姿勢になることは難しいし、ましてはアビーに共感することは、そういった人々には無理な相談だ。
本作のレビューが最も荒れた要因はここにあると思っている。ノーティドッグの描き方は多くの人には受け入れてはもらえなかったし、理解も共感も意図すら察してもらえなかったのかもしれない。
ノーティドッグのこの描き方は実に意地悪だと私も思う。「好きなキャラクターは良い人でいてほしい」もの。そういった人たちがレビューを荒らしたのかと考える。
③復讐への疑念
本作の評価の別れめは、上記の②にあると思っているが、それ以前にプレイヤーの心情について。本作の評価を分ける大きな要因が"復讐への疑念"。
序盤はエリーと同意見の人が多い筈。「アビーたちを殺してやる」という気持ちで一杯。
しかし、エリーの三日間をプレイする中で、この復讐に意味があるのかと疑問が湧いてくる。湧いてこない人の方が評価を見るに、多い気がするが……。
その事が顕著に演出されたのが、ノラへの拷問。どれだけのプレイヤーがあの"☐ボタン"を押すのに、ためらいが有ったのだろうか? 無い人の方が多いと思われるが、私はとてもためらった。一回押すのに、数十秒を要した。それを三回。「自分の身が危ういから殺す」から「一方的に殺した」ことへの変換により私の心情は荒れに荒れた。「もう止めてくれエリー、戻れなくなる」と。
ここでエリーも同様の考えを持っていたことは本編中の描写から明らかである。しかし、多くのプレイヤーは違ったし、ここで乖離が発生した。エリーはこの一方的な暴力への疑念を覚えたが、多くのプレイヤーは「そんなの関係ない、私の気持ちが収まらない。WLFの者どもは殺す」という考えを払拭できなかった。そういったプレイヤーには、この描写は不都合だろう。「エリーの覚悟を見た」という人もいれば、「エリーが疑念を覚えることに納得がいかない、辻褄が合わない」という人もいるかも。もしくは、何も感じ取らず進んだか、感じ取った上で不都合だから無視したか。
ここで一度立ち止まって考えた人と、そのまま突き進んだ人とでは、本作の今後の展開に大きく差が生まれた思われる。それが"アビー編"。
④"アビー"
私はアビーが好きだし、アビーというキャラクターを作ったノーティドッグを称えたい。何よりもこのアビーを大絶賛している。ノーティドッグもよくここまで隠したなと思った。2本目の予告編が彼女だとはいえ、こんな重要なキャラクターだとは思わなかった。
アビーの父親は医師で、前作でジョエルによって殺された。これを踏まえれない人はもう結構だ。知っているだけでは足りない。踏まえて考えるということが出来る人。そういう人でないと、アビーをまず見ないし、アビー編で描かれたことは無視する。
否定派にとって何が不都合だったのか。②で書いたことにも繋がるが、エリーとアビーを客観的に比べたとき、「どちらが良い人か」を考えると、確実にアビーだ。
「好きなキャラクターは良い人でいてほしい」もの。しかし、客観的にみたとき本作ではアビーの方が断然良い人。他人のために本気で命を懸けることが出来るし、とても仲間思いで優しい心の持ち主。
エリーは、あまり他人に優しい訳ではない。優しい人になりたいという思いはありつつも、意図しない言動が先に現れてしまう。ジョエルとエリーが博物館へ向かう『誕生日』で、ジョエルが「すぐキレるクセを直した方がいい」と注意していたところからも見受けられる。シアトルでのエリーも大して変ってはいなかったのだろう。優しいアビーと、優しくなりたいエリー。
しかし、「どちらが強い人」かというと、それはエリーだと思う。"強い"の定義にもよるが、物語の終盤でエリーは一人で行動し、最後には独りになる。これは彼女が独りでも生きていける証であり、強さでもある。かえってアビーは、他人がいないと生きていけない人だ。他人のために命を懸けられるアビーは、逆に他人がいないと生きていけない。
アビーとレブがサンタバーバラで、ラトラーズに襲われたとき、レブが大男に殴られ気絶する。アビーはこのとき、周りにいるラトラーズをどうにかしようなどではなく、真っ先に「レブ!」と叫び近づこうとした。私はこのアビーの咄嗟の行動に泣きそうになった。「レブの死はアビーの死に直結するのだな」と確信した。WLFにいたかつての仲間は全員亡くなり、唯一がレブなのだ。
エリーとアビーは、常に対比の関係で描かれている。ジャクソンでは、エリーは救出しにいく物語で、アビーは復讐。シアトルでは、アビーが救出しにいく物語で、エリーは復讐。エリーは宇宙(高い所)を好み、アビーは怖がる。華奢な身体に、隆々しい身体。そして、"成長と許し"も。
そして、これはゲームとしてだが、エリー編とアビー編を比べたとき、圧倒的にアビー編のが面白い。一日目から飛ばしまくりだった。悪夢のような一日目の後、地獄のような二日目。病院のパートは神がかっていた。そして、三日目の島。エリー編が決して悪いわけではないが、このアビー編の濃密さは最高だった。
⑤ノーティドッグの狙い
エリー編での最後、アビーがジェシーを殺し、アビー編を迎える。アビー編の四年前で、あの医者がアビーの父であることを知り、シアトル一日目のテロップと共にアビー編が始まる。
最初私は、このアビー編が直ぐに終わるものだと思っていた。そのため、弾薬も自由に使っていた。しかし、終わらない。ホームセンターを抜けたあたりで一度コントローラーを置いた。
そして、「一体何を考えているんだノーティドッグ」と考え始めたと同時に「ノーティドッグは本気だ。決して生半可な気持ちで、続編を作っている訳ではない」と確信した。
本作をプレイする上でに、一度コントローラーを置き、考えるということをした人がどれだけいることだろうか。おそらく多くはない。
ネットで漁った意見の中には「ようやくアビーと戦えると思ったのに、大嫌いなアビーを操作させるのは苦痛すぎる。地獄だ」といったものもあった。私はアビーを操作することを全く苦痛だとは思っていないし、一度時間を置き本作のテーマを考慮すれば、このアビー操作は必然。考えれば、ある程度の回答には辿り着くと思うが、怒りに充ち溢れたプレイヤーにはその余裕はなかったのだろう。
そして、本作のテーマが齎すものに直結する。「余裕の無い人、優しさに欠ける人、配慮に欠ける人」、本作はそういった人たちを浮き彫りにした。おそらく、本人たちはそれに気付いてもいない。かれらの脅迫までに至る過激な行動は、本当に残念。おそらくノーティドッグが思うよりも、人々は配慮に欠け、優しさに欠け、また凶暴だった。
また本作のしつこい暴力への躊躇いは、犬により顕著に現れた。何とも皮肉なのかそうでないのか分からないが、多くのプレイヤーが人間を殺すよりも犬を殺すことに躊躇いがあったと思われる。暴力というものを、ここまで実直で目を逸らさず描いたというのに、グロテスクなものに慣れたゲームファンには「凄いこだわりだ」ぐらいにしか思われなかったのだろうか。これらの暴力への細かな描写はテーマと直結しているというのに。ノーティドッグは「一度立ち止まって考えてほしい」と主張しているように私には思える。
⑥成長と許し
もういちど、エリーとアビーについて振り返る。エリーのが強い人で、アビーのが優しい人と書いたが、物事はそんな単純ではないし、ノーティドッグの最も重要としているところもそんなところではない。
"復讐"・"成長"・"許し"
本作のオープニングであるジャクソンで、アビーはすでに成長していた。正確には、成長している段階にあった。それはシアトルでも、まだ途中である。
アビーがジョエルを殺したとき、エリーとトミーを見逃した。そして、劇場でもディーナとエリーの命を奪わずに去った。エリー編の三日間で、示される数多の痛みや喪失、迷いと疑念を、アビーは既に経験していた。そして、経験した上で今に至っている。成長という過程で先を歩いていたのがアビーだ。もし、エリーがアビーと同じ立場ならおそらく殺しているだろう。
エリーはシアトルでの三日間では成長するまでには至らなかった。彼女にはあまりにも時間が足りなかった。全てが突発に起き、最善の選択を考える余裕のないまま、足を進めた。暗闇か光りかも分からぬ道を。
エリーは、アビーが劇場に訪れたとき「ワクチンがないのはジョエルのせいじゃない」と見当違いなことを言う。アビーはメル、オーウェン、アリス及び仲間が殺された恨みでここに来ているのであって、ジョエルへの復讐心で来ているのではない。アビーの中の復讐はとうに終えており、許し、そして個人的な理由で人を殺めたことの罪滅ぼしすら頭の中に有している。(エリーが見当違いなことを言ったのは、この場を逃れるための可能性もあるが)。
そして、サンタバーバラでのラスト。エリーはアビーを見逃す。ここまで来て、ようやく冒頭のアビーのレベルへとエリーは到達する。アビーの復讐はもう終わっているし、あくまでもジョエル殺害は、アビーの私的なものに過ぎず、彼女の真の心情からかけ離れていることは、アビー編をしっかりプレイしたものには分かる筈だ。
エリーの心情はとても辛かった。頼る人を失い、手を真っ赤に染めた。暴力の種類は、前作のジョエルがしてきたものとは別物だ。何が正しいのか全く分からず、トラウマに苦しむ。
私たちのように、彼女たちはしっかりと教育を受けている訳ではない。全てが違う。生まれた瞬間から感染者と共にいる。「自然って最悪」というセリフがとても印象的だった。
彼女は多くを失った。母、ライリー、ナディーン、テス、サム、ヘンリー、ジョエル、ジェシー。エリーは他人と腹を割って、心の底から分かち合うことがあまりにも不足していた人生だったのだと思う。本当に何が正しいのか、最善なのかが分からない。ふつうが違い過ぎる。我々のように、他の選択肢が見えるほどの教育と余裕のある人生を送ることは出来ていない。当然PTSDなどの疾患を知るよしもないだろう(いや、知っているかもしれない)。パニック、混乱、不安、睡眠不足と食欲不振。
あなたは腹が空いているのか、何か食べたいのか、それとも食べたくないのかという症状が続いたことはあるだろうか? 眠りたいが眠れず、ただ時間が過ぎるのを孤独に待ち続けたことは? 急に目の前が暗くなり、耳が聞こえなくなったことは?
エリーの最後のバトル、そして涙と許しは、嗚咽が出た。吐き気もした。あまりにも辛すぎた。エリーが季節を過ぎても、サンタバーバラへ向かいアビーを探したのは、断じて復讐のためではない。
この物語は、パンデミック前を知るジョエルやトミーらの物語では決してない。パンデミック後の世界が"ふつう"の人たちの物語だ。この大前提を間違えている人は考えを改めた方がいいかもしれない。もはやこれは想像の域を越えている。
⑦ジョエル
本作をプレイする前に、本作が決して明るい作品でないことは、多くのプレイヤーはさすがに承知だっただろう。
私はプレイ前、トミーなどは死んでいるのだろうと思っていた。私は下の三つの予告編しかプレイ前に観ていないが、エリー操作で、ジャクソンではないどこかで見知らぬものと戦っていることから、ジャクソンは滅びたとすら思っていた。ジャクソンが滅びることを最悪だとするのであれば、ジョエル一人の死はジャクソンからすれば大きくはない。どちらかと言えば、未来を背負って行くジェシーの方が大きいだろう。しかし、プレイヤーとエリーにはとても大きい。どちらかに悲劇は起こる。それは予想していた。しかし、それはあまりにも早かった。
作品として見るならば、掴みとしてはバッチリだろうが、正直私もかれの扱いが正当だったのかは分からない。しかし、ジョエルは24年で、数多の罪を犯し、人を殺めた。あのトミーがうなされるほどだ。ジョエルが長生き出来ないのは、神さまの運命で決められていたのだろう。
本音を言えば、もう少し操作がしたかった。
⑧メタスコア"96"
現在は94だが、発売前に発表された96はとんでもない数値だった。94でもとんでもない数字だ。しかし、蓋を開けてみると、一般ユーザーからは非難の嵐。「メタスコア96に納得がいかない。意味が分からない」などとの意見も目にしたが、普段ゲームしかやらない人とは観る視点が根本的に違うことは考慮してほしいもの。もっと映画を観た方がいいし、本も読んだ方がいい。講和を聞いてもいいし、記事を読むのもいい。美術館や個展に行くのもいいし、何か勉強をしてもいい、広げるべきだ、何かにはこだわらずとも。
一般ユーザーによるものは、半数は荒らしだろう。本作のクリアまでのプレイ時間はおよそ最低でも20時間程度はかかるが、本作のレビューは初日から大荒れと聞いた。私はクリアするまでの約1週間ネットを絶っていたため、正確には分からない。しかし、初日に荒らされたということはそもそもクリアすらしていない人たちによるものだと考えることができる。
クリア後、本作のテーマやメッセージを受け取った上で、否定的な人もいれば、肯定的な人もいるだろう。そして、そのどちらでもない人も。このどちらでもない人は、扇動されやすく、多数派に注目し、低きに流れる。自分はないのか?と思ってしまう。
「0点」を付けるのはさすがに無い。どのゲームでも作品でも。何か一つ「1点」を付ける価値のあるものはあると思うのだが。
メタクリティックは現在、本作の荒らしを受けてか、発売から36時間までは、評価が出来ないように変更した。本記事を書こうと思ったのはあまりにも否定の意見が多かったから。絶賛されていたらおそらく書いていない。
⑨北米版と日本版の差、そして暴力
私は本作の記事を書いている現在までに3周プレイした。1周目と2周目は日本版で、3周目は北米版で。身体の欠損などの過激な描写が日本版では規制されている。正直これは、特に気にしていない。グロテスクなのが苦手な方もいるだろう。私もその一人。たくさんゲームをやり映画やドラマを見てもいまだに慣れない。慣れなくていいかもしれないけれど。アメリカにも、日本版のが過激じゃなくて良いという人がいるかもしれない。
しかし、一部ムービーシーンにあるSEXシーンをカットしたのはいただけない。本作は18歳以上しかやってはいけないゲームだ。ポルノもそうだ。しかし、何故かCEROは18歳以上もSEXを見てはいけないと思っているらしい。映倫といい、何故こうも規制するのか分からない。いくつになったら見ていいんだろう。「そういう意図ではない」ことは理解しているが、それでも腹が立つ。もう18歳以上の垂れ幕コーナーにしか置けないようにするべきだ。そういった意識が必要な気がする。
そしてもう一つ。これが日本版の規制で許せなかったこと。それは「セラファイトの処刑方法」。日本版しかプレイしていなかったとき、私はこう思った。かれらは「首を吊って、腹を裂いて殺す」と。しかし、北米版は違った。北米版では「首を吊って、腹を裂き、腸を引きずりだす」、そしてこれを解放(free)と呼ぶ。
よくよく考えれば分かったことかもしれない。私は何故日本版をプレイしているときに「首を吊っている時点で死ぬのに、どうして腹を裂くのだ?」と思わなかったのだろう。セラファイトは、腹を裂くことを目的としている訳ではない。腸を引きずり出すことを目的としている。そのために腹を裂かねばならないだけのこと。もし腹を裂かずに、腸を引きずりだせるなら他の方法をとっているかもしれない。とにかく、私はこれを北米版で初めて気付き、衝撃を受けた「全然意味が違う」と。
本作の暴力や過激な表現に伴うテーマの存在がとても大きな役割をもっている。⑤でも書いたが、暴力への躊躇い。本作がしつこく過激表現にこだわっているのは、単にグロテスクが好きな人々を喜ばすものではない。一度立ち止まり、その言動を考えてほしいのだ。誰かを傷つけてしまうかもしれないから。
日本版の過激描写規制を特に気にしていないと書いたが、本当はもちろん気にしている。ツシマのように血飛沫のオン/オフとか、変えられるようにすべきだと思う。苦手な人はオフでいいし、大丈夫な人はオンにすべき。本作は18歳以上が対象のゲームだ。それが選択出来ないなら、ゲームをやるのは向いていない。18歳以上というのは、18歳以上をさすのだ。こと日本における、18歳以上って本当に何なのだろう。
⑩個人的なこと
これは私個人として、思ってきたことでしかないが、「視点の違いによる善と悪」に興味を持っていた。正確には「他方がないがしろにされているのではないか」が正しいかもしれない。
数多の作品における、脇役やそれ以下の者の死。受け手にとって、特にカメラを向けられなかったキャラクターの人生や家族など「心底どうでもよいことだ」と考える人は一定数いるだろう。
私はこういった考えにずっと疑問を抱いてきた。何故その人にも、自分と同等の価値のある人生を持つとは考えないのだろう。何故地方の人たちの、その土地の人生や生活の想像や配慮が全く出来ないのだろう。私は地方の生まれと育ちだが、本当に何もないところに生まれた訳ではない、イオンもあった、映画館はないが。「映画館のないイオンとか、イオンじゃねぇ」高校の同級生に言われた。
自分で言うのも何だがこういった、人への配慮が欠如している人間があまりにも多いと感じたのがノーティドッグのクリエイターたちではないだろうか。
それらは、LGBTQの描写からも見てとれる。本作のその描写に「ポリコレへの配慮」、「レズにする必要あった?」等と、そんな理由で叩く人々が存在する。一体その人たちにとって、これらがどれほど不都合なことなのか私には想像もつかない。2000年代のアメリカのテレビドラマ『シックス・フィート・アンダー』には、同性愛を理由に殺人事件が起こり、レイシストは、その葬儀にまで足を運び非難する描写があり、私はそれを忘れられないでいる。
LGBTQを扱った作品は多数あり、私も多数観賞したが、そもそも上記のような人々は観ようとすら思わないのだと思った。ここに「配慮の欠如」が存在し、また他者を理解しようとせず、自分は正しいと思いこむ根拠の無い自信がある。
本作でセスという人物が登場するが、彼以下であることの自覚はあるのだろうか。
私は映画やドラマ等を観る理由の一つに「知らぬものに触れる」ということを意識している。自分の知らない考えや文化を知る。すなわち世界を知る。自分と全く同じなら、その考えにわざわざ触れる必要はないし、自分を正しいと思いこむのであれば、他者の考えなど、ただ突っぱねるだけだ。
本作に登場するキャラクターにも多数いるのではないだろうか。過激化したセラファイトやラトラーズ。また一部のウルフの者もそうだろう。そして、当然エリーも。"組織"というものを強く感じた作品だった。その組織は広いのか、狭いのか、そして有意義なのか。自分の属する組織、会社や学校、地元などについても考えさせられた。
ネットの感想の中で「ポリコレへの配慮などで叩くのはアホくさいとは思ったが、冷静になってみると設定や物語を考慮したうえで、これだけのLGBTQの描写は必要だろうかとも思った」というのがあった。「何かしらの明確な意図や、物語や設定の必要性がないとそれらの描写は入れたらいけないのか?」というのが私の回答。レイシストはもちろんだが、こういった意見が当たり前のように溢れる以上は、ずっと描写をし続ける必要がある。「見えないところでやってくれ」だの。なんでだよ。
⑪蛾
既に色々と記述したので、引用元を読んでもらえばいいと思う。上の二つだけで、本作の大切ことが書かれている。
⑫小ネタとか小話
・ちなみに私はメルが好きなキャラクター。2周目で気付いたが、ジャクソンでのメルはとても怯えていた。
アビー編の四年前、バックパックの中にある、メルが書いた手紙は、読んだだけで泣きそうになった。
・下の画像の子はキャット。ちゃんとやっている人は勿論承知だろうが、彼女はエリーのタトゥーを彫った子であり、エリーにとって大事な人。どうして本編で出てこなかったのだろう。会話の内容から生きてそうな気はするが。死んでいたらショック。2年前のホテルに行くパートで、日記を読めばキャットについて書いてある。そして、エリーの部屋に彼女の写真が貼ってある。単体で映っている写真はこれしか飾られていない。素敵な思い出については日記を読むべし。
・ニール・ドラックマンはパート3を作るか、新たなIPかと迷っているらしいが、本作によってパート3の壁はとんでもなく高くなってしまった。物語をただ続けることには意味がないし、設定だけ借りるのも違う。難しい。何か一つの案すら私には思い付かない。パート3が出るのであれば、もちろんプレイする。当面はHBOのテレビシリーズで忙しいだろうけど、それがきっかけでドラックマンにアイディアが生まれるかもしれない。
・前作を踏まえての感想を書かなかったのは申し訳ない。
・パート2の最初は、ジョエルのギターと歌で始まったが、ジョエルは前作で子供の頃の夢は「歌手」と言っている。胸が熱くなったポイントの一つ。
本作は2周目が過酷なゲームだと思う。ボリュームといい内容といい。しかし、是非2周目をやってほしい。ジャクソンでの会話一つ一つがとても価値あるものだと感じる筈。一周目では私も流してしまっていた部分があった。
・私は、上記でも書いたように3つの予告編ぐらいしか、プレイ前に事前情報を入れていない。そのため、ストーリーの予告編にあったらしいが、エリーの口を塞ぎ、振り返るとジョエルがいたもの。本編ではジェシーだった。私は、何も知らなかったので、雑念無く「ジェシー!!」と驚いたが、予告編を見ていたプレイヤーは違う驚きだったそうで。正直、これについてはノーティドッグが意地悪だ。すべきじゃなかったと思う。
・ネットの意見の中に「ムービーが多い」というのがあった。私はまるで感じなかったので単純に疑問を持った。そして、直ぐにその回答は浮かんだ。私は最高難易度でプレイした。そのため、ひとつひとつのバトルに掛かる時間が尋常ではない。正直ムービーがきたとき「やっとムービーか」とすら思ったほど。二周目以降では、「ムービーが多い」という意見も理解できた。低難易度でプレイした人、もしくはゲームが大変上手い人はそう感じると思う。
本作の難易度設定は実に巧妙だ。是非高難易度でもプレイしていただきたい。死ぬほど時間が掛かってこそ、よりラスアスだから笑。
・ラトラーズについて、「用意された感があるな」と少しは思ったのだが、"過激派"という点に注目すると、相応しかったのかもしれない。リーダーを失い過激化したセラファイト、リーダーが変わり過激化したWLF、そして、二人の女性の復讐。仲間でも平気で殺す、ラトラーズは全員が過激化した、最もいかれた集団。最後には適しているのかな。
・プレイ中に一番最初に公開された予告編を思い出した。「ジョエルはいたはず、でも顔は映っていなかった」ということから、「あれはエリーの幻影で、これからもエリーは復讐の道へと進んで行くんだ」と思ったときがあった。脚本を大幅に書き直した等の情報もしらなかったので。実際どうなのかは知りませんが。
〈作品データ〉
Developer:Naughty Dog
Publisher:Sony Interactive Entertainment
Director:Neil Druckmann, Anthony Newman
Kurt Margenau
Cast:Ashley Johnson, Troy Baker, Laura Bailey
Designer:Emilia Schatz, Richard Cambier
Programmer:Travis McIntosh, Christian Gyrling
Artist:Erick Pangilinan, John Sweeney
Christian Nakata
Writer:Neil Druckmann, Halley Gross
Composer:Gustavo Santaolalla, Mac Quayle
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