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連載小説|寒空の下(10)

 警備員として働き始め、1週間ほど過ぎた日。俺は時間という概念に縛られすぎている自分に気が付いた。

 今までショッピングモール側から指示を受けている時間通りに働き、休憩していた。それは彼らの勝手であって、こちらが望んだことではなかった。きっちり働かなくても施設がどうにかなってしまうほど客は来なかった。「仕事だから」「お金をもらってるから」そんなことを言われたところで納得できなかった。

 俺は勝手ながら自分のペースで時間を動かすことにした。30分だった休憩時間を少しずつ延ばしていった。最終的にはずっと休憩していて気が向いたら1時間くらい働いて、また控え室に戻るという形式を取るようになった。その長い休憩時間を利用して、俺は紹興酒を飲みながら本を読んでいた。しかし、不思議なことに花蓮さんや笠原も同じくらいかそれ以上に控え室で休憩を取っていたし、紹興酒を飲んでいた。

「西山くん、あんた休みすぎじゃない?」花蓮さんは言った。
「そんなこと言ったらあなた達も一緒じゃないですか?」
「つまり?」
「2時間以上もここにいるじゃないですか!」
「・・・」
「そこのお爺さまに限ってはずっと寝てますし」

 花蓮さんは無言のまま手に持っていた紹興酒を俺に手渡すと、部屋の隅にある金庫らしきものへと歩いていった。書類を取り出すと、俺のほうへとやって来て、目の前の机にそれを叩きつけた。俺の隣でうつぶせになって寝ている笠原がほんの一瞬だけ目を覚ましたが、また動かなくなった。

 「労働者組合のルール」という表題の書類には誰が決めたか分からない決まりごとがいくつか書かれていた。働きたいときに働く…酒は労働に必要…客は神様なんかではない…などなど。一番下には署名の欄があった。

「何ですかこれは?」
「サインをしてくれれば私が書類の条件のもと働いてる人を守る」
「こんなことしてたら中の人たちが黙ってないでしょ?」
「まあ、いろんな事情があってあの人たちは私に口出しできないのよ」
「そこのお爺さまもこれにサインをしたんすか?」
「ええ」

 怪しい話には違いなかったが、サインさえすればこんなにも楽な条件で働けると思うと悪くは思えなかった。ただ、俺はまだ花蓮さんとの関わり合いが浅かったし、信頼していいものかためらった。最終的に、どこかの作家が信頼できるかどうかは信頼してみれば分かるなんて言っていたのを思い出し、俺は笠原が酔いつぶれている横で書類にサインをしてしまった。

 その日の夜、仕事を終えて帰宅するとアパートには電気が灯っていた。消し忘れてしまったのかと少し焦りを感じたが、窓に映る人影を見てその感情はすぐに苛立ちへと変わった。勝手に合い鍵を作った彼女が定期的にやって来ることを思い出した。俺は理恵というその同級生のことを好きでも嫌いでもなかった。わざと大きな音が出るように力を込めて玄関の扉を開けた。理恵はすぐに玄関に出てきた。

「勝手に入るなよ」俺は理恵の顔を見ずに言った。
「おかえりなさい」

 抱きつこうとしてきた理恵の相手をすることなく、すぐにトイレへと向かった。ドアを閉めることなく便器に座り、小便をした。

「どうしてそんな態度を取るの?私なんか悪いことした?」
「1人になりたいだけだよ」

 理恵はキッチンに戻った。俺のアパートではドアを開けていれば便所からキッチンが見える。それだけ狭い部屋というわけだ。彼女は出会った頃のように髪をポニーテールにしておらず、おろしていた。彼女の中で唯一美しいと思えるうなじという部位を見たかったが、わざわざリクエストする気にもなれなかった。何やら料理をしているようで、肩が忙しく揺れていた。小便が終わっても俺は便器に座ったままでいた。

「そういえば何でそんな服着てるの?」
「アルバイトの制服だよ」
「バイト始めてたんだ、知らなかった。何のバイト?」
「酒を飲むバイトだよ」
「居酒屋ってこと?」
「いや、そうじゃない」
「よく分からないけど、何か楽しそうだね」

 理恵が出来たての料理を二人掛けの真っ白なテーブルに並べ始めた。このテーブルもそれに合わせた真っ白な二脚の椅子も理恵が勝手に買ってきたものだった。腹が減っていたのでようやく腰を上げて便所から出た。罪を重ねることになるのを分かっておきながら俺は理恵が作ったカレーライスを食べることにした。彼女は料理が上手だった。俺たちは横並びになって食事を始めた。

「お前はもう大学卒業するんだろ?」俺は言った。
「うん、でも拓己は延期になったんでしょ?」理恵は伸弘とも友達だった。
「それはいいんだけどさ、地元には帰らないの?」
「私はしばらくこっちにいるよ、拓己と一緒に暮らしたいから」
「やめとけよ、あまりいいことにはならないと思うし」
「大丈夫だよ、4月からは私が働くし」
「言っておくけど、俺は感謝もしないし、好き勝手に生きるよ」
「それでもいいよ、私も勝手にしてあげてるだけだから」

 誰か一人だけを愛したいと思ったことはなかった。外では2月の冷たい風が吹き荒れていたがエアコンに温められた部屋は暖かかった。もし子どもが生まれたら、こういう場所が必要になるのだろうが、少し平和すぎるようにも思えた。だから、この日も俺は理恵と何の約束もしなかった。この先もずっとすることはないだろう。それでも彼女が側にいるというなら止めないが、それはどうかしている。

 もう遅かったので、俺たちは食事を終えるとすぐに一緒のベッドで寝た。彼女は足を絡ませたり、行為を求めたりもせず、行儀よく眠りに落ちた。

つづく

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