見出し画像

幼馴染み|短編小説 前編

 膝に迫るほど雪が積もっていたのはゲレンデだけでなく、駐車場も同じだった。午前中に車を停めたときはまだ黒いアスファルトの地面がはっきりと見えていたが、今はもう真っ白で何も見えなかった。赤いコンパクトカーにも雪が降り積もり、かまくらのようになって車体を覆っていた。出発しようにもできそうになかった。

 おれはゲレンデの麓にあるベースキャンプで着替えを済ませ駐車場に出てきたのだが、スコップを探すため、すぐに中へと戻った。スノボの用具を返却したレンタルショップでまだスタッフが作業をしていたところをついさっき見かけていた。ベースキャンプの2階にレンタルショップはあった。あそこに戻ればスコップを借りられるかもしれない。もう時刻は17時近くになっていた。本来の営業時間はとっくに過ぎていたが、咲希はまだ更衣室から出てきていなかった。

 階段を駆け足で登り、スタッフを探した。案の定、レンタルショップにはまだ人がいた。顎髭を生やした男性スタッフがカラフルなスキー板を何枚かまとめて運んでいた。眉間にしわを寄せて、どこか近寄りがたい雰囲気だった。男を前にして、一瞬足が止まってしまったが、ためらっている場合ではなかった。「すいません」と何回か声をかけた。おれの存在に気付くと、男はスキー板を手にしたまま振り返った。

「どうかしました?」
「あの、ちょっと車が雪で埋まってしまって、スコップを借りたいんですが」
「ああ、そういうことね。構わないよ、ちょっと待ってて」

 男は作業をやめて、バックヤードの中に入っていった。身長は大きくなかったが、威圧感のある後ろ姿だった。仕事の邪魔をすることになってしまい申し訳なかった。きっと迷惑な客だと思われたはずだ。が、1分もしないうちに鉄製の大きなスコップを持って外に出てきた男は、丁寧に両手でスコップを手渡してくれた。

「もうここ閉めちゃうからさ、使い終わったら外に置いといてくれればいいよ」
「助かります」
「お兄ちゃん、レンタカーか何かで来たの?」
「そうなんですよ」
「そうかそうか。帰り道、気を付けてね」
「ありがとうございます」

 どこか馬鹿にされているような気もしたが、男の顔を見ているとおれに対して親心を抱いているように感じた。だから腹が立たなかった。咲希がおれと同じ立場だったとしても、きっと同じように感じたはずだ。不思議なことに、彼女にもこの男と会わせてやりたいと思った。だが、更衣室まで咲希を呼びに行く時間はなかった。それに彼女は身支度に必死で、呼んだところで出てこないだろうと思った。

 駐車場へと急いだ。車に戻る頃には、日が徐々に沈み始めていた。山際へ目をやるともう既に暗くなっていた。山の上には空ではなくて宇宙がそのまま広がっているように見えた。

 運転席の横にスコップを入れ、まずは自分が乗るための扉が開けられるようにしなければならなかった。上層の雪はまだ柔らかく、スコップの刃が簡単に入ったが、掘り進めていくと固くなり、ときより刃が跳ね返された。勢いをつけてスコップを振り下ろさなければならず、借り物の車に傷がつきそうで怖かった。

 どうにかして雪をどかし、運転席に乗り込むことができた。少しかかりは悪かったが、エンジンは一発で始動した。バックで出ようと思い、アクセルをぐっと踏み込んでみた。しかし、跳ね返されるような感覚が右足の底に走るだけだった。まだ両側のリアタイヤが雪に埋まっていた。

 ベースキャンプの看板を照らしていたライトがいよいよ消えた。周りにはもう数台しか車はなく、他の客はみんな帰っていた。スタッフ以外で残っているのはおれたちだけだった。咲希はいつまで経っても更衣室から出てこなかった。いい加減にしてくれよと思った。

 再び車の外に出た。スコップでリアタイヤ周辺の雪を掘り、ひたすら放り投げた。数分経ってようやくナンバープレートが顔を出した。すっかり凍結していてその文字はほとんど読み取れなかった。リアタイヤと地面の間に挟まっている雪は氷のようで強く叩かないと取り除けなかった。おれはゲレンデにいる時よりも激しく動いた。そのせいで黒いダウンコートの中は汗でぐっしょりしていた。

 10分以上掘り続けて、ようやくリアタイヤが表に出た。おれは急いでベースキャンプの入口にスコップを置きに行った。その時、室内からはガラス越しに咲希がこちらを覗いていた。やっと更衣室からは出てきたようだが、外には来なかった。どうせいつもの悪ふざけだろう。声をかけようか少しだけ迷ったが、かまっている余裕はなかった。おれはすぐに背を向けた。こうしている間にもまだ雪は降り続けていた。

 走って車まで戻り、もう一度アクセルを踏み込んでみた。今度は上手くいった。ガクンという音がして、車体が宙に浮かんだ。衝撃でフロントガラスに積もっていた雪がどさっと地面に落ちた。気持ちよかった。まだスタッフは誰一人としてベースキャンプから出てこなかった。必要以上に迷惑をかけることにならなくてよかった。

 車を出発させると、ベースキャンプを出た咲希が近づいてきた。寒さのせいか、ただでさえ華奢な体をさらに縮こませていた。小さくなりすぎて、小学生の女の子みたいだった。それでも昔に比べれば身長も伸びたし、胴体から腰まで真っ直ぐだった体の直線が今ではきれいな曲線を描いて緩やかに外へと広がっていた。おれからすれば年齢に合わないように見える派手な化粧までするようになった。

 咲希は何事もなかったかのように後部座席に大きな荷物を放り投げ、急いで助手席に乗り込んできた。少しでも雪に当たりたくないようだった。おれはできる限り紳士的な態度で咲希と会話をした。

「すごい汗かいてるじゃん。ずいぶん手こずったんだね」
「遅くなって悪かった。少しくらい手伝ってもらえると助かるんだけどな」
「何その言い方?手伝ってほしかったんなら最初から頼めばよかったじゃん」
「お前がいても邪魔になるだけだよ」
「そんなこと言わなくてもいいじゃん」

 出発する時にはすっかり日が沈んでしまった。車を動かし始める前にもう一度振り返ってみたが、ベースキャンプの近くにある雑木林が雪のせいで綿飴みたいになっていることくらいしか分からなかった。頂上近くの足がすくむような急斜面はもう見えなかった。

 出発することができ内心ほっとしていたが、束の間の喜びだった。ゲレンデで見たのとあまり変わらないように見える凍結した斜面がその先に待ち構えていた。おれは右手だけで握っていたハンドルに左手を添えた。ただでさえ暗い夜の峠道を進むのは恐怖だった。吹きつける雪の勢いはさらに強くなっていった。

 次第にライトにも雪が張り付いてしまい、前方はますます見えなくなった。ハイビームに切り替えたところで意味がなかった。姿勢を前屈みにして、できるだけフロントガラスに顔を近くなるように試みたものの、中央線すらまともに見ることができなかった。カーブの出口など見えるはずがなかった。これはもう車を停めるしかないと思うほど危機を感じていたが、隣に座っていた4つ年下の咲希はお構いなしに話しかけてきた。咲希は運転免許を持っていない。

「ねえねえ」
「どうした?」
「うち、この2日で大成長したと思わない?」
「そうだな」
「昨日スノボ始めたばかりで、普通に滑れるようになったんだよ?」
「よくやったな」
「しかもあんな急斜面でだよ?」
「ああ」
「ねえ、ちゃんと答えてよ!うち、ほんとに頑張ったと思わない?」
「ちゃんと答えてんだろ」
「じゃあ、もっと褒めてよ!」

 おれは誰にも助けてもらえない。咲希とは違う。せめて前に1台でも車が走ってくれていればついていけるのだが、街灯が明るい平地の大通りに出るまでそれは叶いそうになかった。

 途中までは何とか事故をすることなく前に進んでいた。出発地点からずっと下り坂を進んできたのだが、傾斜はそこまで急ではなくカーブも緩やかだった。先が見えなくてもスピードを出さなければ何とかなっていた。だが、もう少し行けば通りに近い民家の街灯が見えてくるはずの所で道が大きくうねり始めた。おれには特定の信仰心なんていうものはないが、この時ばかりは海外サッカークラブの選手たちみたいに胸元で十字を切りたくなった。

 急なカーブに進入する手前から、タイヤの下で不気味な音が鳴っているのが聞こえていた。奥歯で強く歯ぎしりをするような音だ。車をコントロールしているという実感はもうなかった。その代わり、空から落ちるような夢を見ると本当に高い所から落下しているように感じるあの感覚だけがあった。

「ちょっと拓己?」
「あ?」
「聞いてるの?」
「ああ」
「スマホとナビをつなぎたいんだけど、どうしたらいいってもう3回くらい言ったよ!」
「……」
「ねえちょっと!」
「……」
「音楽が聴きたい!」

 ヘアピンカーブに入った瞬間、咲希がおれの脇腹を小突いた。おれは驚いてブレーキを深く踏み込んでしまった。咄嗟にできることは左手で咲希を押さえ、フロントガラスに向かって吹っ飛ばないようにすることくらいだった。そのおかげでおれはハンドルを切ることができなかった。車はおもちゃのようにスピンしながら滑っていった。どれくらい回転したかは分からなかったが、反対車線に飛び出し、進行方向とは逆の向きになって動きを止めた。

 何が起こったのかまったく分からなかったが、衝撃は少しも感じなかった。幸いにも事故は起きていないようだった。それでも、こんなことになれば黙って見過ごすわけにはいかなかった。咲希からすれば年上ってだけでおれは何でもできると思われているのかもしれない。仕方がないことだ。それでも、やっていいことと悪いことがあるのを教えてあげなくてはいけない。はじめは咲希を責めるつもりはなく、穏やかに諭すつもりでいた。深く溜息をついてからサイドブレーキを引き、ハザードランプのボタンを押していよいよ口を開こうとした。その矢先だった。

「ちょっと!何してんの!あんまりふざけないでよね?」
「は?」
「こんなことしてたら死んじゃうじゃん!ちゃんと運転してくれない?」
「おいおい、落ち着けよ」
「落ち着いてないのはそっちでしょ?」
「……」
「ねぇ、聞いてる?」
「……」
「ねえ!」

 最初に手を出してきたのは咲希の方だった。平手でピシャリとおれの右頬を叩いた。彼女にとってはおふざけだったのかもしれない。が、おれにとってはただ辛辣な態度を取られたようにしか思えなかった。頭へ血が上ってしまった。幼い頃から繰り返してきた喧嘩と変わりなかったのだが、興奮のあまり力が大人になっていることを忘れてしまっていた。それがいけなかった。おれは反射的に素早く手を伸ばした。そして、咲希の胸倉を押し込むようにして掴んだ。ぐっという声が出て、咲希の体はより深くシートに沈んだ。

 首元をさらにねじり上げ、腰がシートから離れるほどに持ち上げた。咲希は抵抗することができなかった。ただ低くて汚い呻き声を洩らすだけだった。車の窓ガラスはひどく曇っていた。おれは何も考えていなかった。どれほどの間、咲希を持ち上げていたか覚えていない。我を忘れていた。咲希は首元を締め上げていたおれの右手を必死に叩いた。

 手を緩めると、咲希は操り人形を放した時みたいにだらりとした格好でシートに崩れ落ちた。ピンク色のチークをしていてもほっぺたは青ざめていた。胸元を抑え深く息を吸い、呼吸を整えようとしていたが、上手くいかず激しくむせていた。苦しそうだったが、申し訳ないという気持ちを抱くまでには少し時間がかかった。パニックが重なり、状況を整理することで精一杯だった。

 ドアを叩きつけるようにして車の外に出た。傷がついていないか気になったというよりは、一人になって時間を取りたかった。せまい車内に自分がひどく痛めつけた女がいるのだ。幼馴染みで兄弟同然だとはいえ、さすがに気まずかった。わざと車の周りをゆっくり歩き、時よりかがんで、前後のバンパーに手を当てたりした。もちろん、雪のせいではっきりとした状態は分からなかった。とにかく時間がほしかった。10分くらい経って少しだけ気持ちが落ち着いた。おれはそっと車に乗り込んだ。

 咲希の肌色は少しよくなっていた。姿勢も真っ直ぐに戻っていた。ゆっくりではあるが、呼吸のリズムも戻っていた。ただ、その瞳は粘土で塗り固められたようになっていた。どこかにピントがあっているようには見えなかったが、一点を見つめ、少しも動く気配がなかった。正直なところ、おれはどうしたらいいか分からなくなっていた。「すまなかった」とだけ言ってみたが返事はなかった。

後編につづく。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?