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始まってもいなければ終わってもいない|ショートショート

「ただいま」とは言わず、静かに彼の部屋へと戻った。まだ彼は仕事から帰ってきていないようだった。私は半年も経たないうちにウェイトレスの仕事を辞めた。同僚から労いの言葉をかけられることはなかった。当然、送迎会の提案もなかった。いつものことだ。寂しいとは思わない。むしろありがたいと思う。

 私がもともと所有していた荷物はクローゼットの中にある限られた衣服と、ドレッサーの引き戸に忍ばせてある化粧品くらい。荷物をまとめるのにはいつも一時間もかからない。引っ越し業者に頼む必要もなく、五人乗りの軽自動車に乗せると後部座席のスペースが有り余るほどしかない。今夜、私は居候をさせてもらっている彼の部屋をそっと抜けだすつもりだ。

 彼は私よりもおそらく年上で、落ち着いた雰囲気の人だった。いつもスーツを着ていて、妻子がいてもおかしくはないように見えた。週に何度か、私が勤めていたカフェに一人でやって来た。どうして仕事を終えて、すぐ家に帰らないのか不思議だった。

 私は仕事を上手くこなすことが出来なかった。お客からは苛立ちをぶつけられるようなことがしばしばあった。コーヒーカップ一杯を運ぶのにうろたえてしまっているようでは、仕方ないといえば仕方がないことだった。彼だけは違った。私がどれだけ不慣れな対応をしても、にこやかな表情で見守ってくれた。

 お互い顔を覚え、ちょっとした世間話をするようになった頃。彼から「この後少し出かけませんか?」と声をかけられた。私には誘いを断る理由がなかった。先にいなくなった彼は、仕事が終わる時間に合わせて戻ってきた。黒い外車のセダンに乗って、東京駅近くにある店の前に颯爽と現われた。

 乗ったこともないような車の中で私は緊張してしまった。車内でも彼は優しく話しかけてくれたが、声が上ずってしまった。しばらくして、見知らぬ公園に辿り着いた。少し歩くと、鮮やかにライトアップされた東京ゲートブリッジが見えた。光がうねるようにして宙に浮いていた。頭がぼーっとした。私たちは夜釣りにやって来ている人たちの邪魔をしないよう、小声で会話を続けながら散歩をした。

 「今、どんなところで暮らしてるの?」散歩の途中で彼にそう尋ねられたが、私は本当のことを話すのがひどく恥ずかしかった。その頃の私は、ネットカフェやカプセルホテルを転々とする生活を送っていた。時には、自分の軽自動車で車中泊をするようなこともあった。

 正直に生活のことを話すと「僕の住んでるマンションでよければ、部屋が空いてるから使ってもかまわないよ」と彼は言った。見知らぬ男性の部屋に居候するのには少し抵抗があった。しかし、逼迫した生活から抜け出したい気持ちの方が強く、断る気にはなれなかった。

 それからは高層マンションにある彼の一室と、カフェを行き来する生活が始まった。全ての部屋において無駄な物が一切置かれておらず、まるでホテルのようだった。私にあてがわれた部屋はもともと寝室として使っていたのだと彼が教えてくれた。壁に掛けられた大きなテレビ。スカイブルーのソファーとスツール。重厚な木製のフレーム以外、全て白で統一されたベッド。他の部屋も何室かあったが、どの空間も生活感はあまりなく、私が暮らし始めたばかりは彼が帰ってこない日も多くあった。

 彼が帰ってくる時は、決まってプレゼントと一緒だった。ネックレス、バッグ、素敵な花柄のワンピース。それに、誕生日でもないのに毎月紫のカトレアを買ってくれた。「そんなにしてくれなくてもいいのに」そう言って私はいつもプレゼントを遠慮したのだが、彼は「こっちが感謝してるくらいだから受け取ってほしい」と言って聞かなかった。

 そんな生活を続けているうちに、少しずつ彼が部屋にいることが増え始めた。私は彼の愛情が深まっていくのを感じ、居心地が悪くなっていった。

 彼のことを裏切るのは心が痛くもあったが、これ以上彼のことを知りたくなかった。私のことも知ってほしくなかった。ここにいれば幸せで快適な生活を送れることは間違いなかった。けれど、私は自分の足で人生を歩んで生きたかった。彼の優しさに溺れ、着せ替え人形のような人生しか送れない自分にはなりたくなかった。

 荷物を後部座席に載せ終えると、軽自動車に乗りこんだ。そして、彼の部屋の方を見上げ「さようなら」と言った。最後まで悩んだ挙げ句、彼からもらったプレゼントは全て残していくことにした。部屋に戻ったら、玄関に置いてきた手紙を読み、彼は私だけが去ったことに気付くだろう。

 この地を離れる前に東京ゲートブリッジを見ておきたかった。私は港方面に向かって夜のバイパスを走り始めた。途中で何度か彼が乗っているのと同じ車が対向車線を走っていった。しかし、彼の姿はなかった。いつか彼に出会うことはあるのだろうか。会ったとしてもどう話しかけていいものか。今の私には分からなかった。

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