【暇な大学生の学び】12 自分と[自分]
僕は名声・評価で動く人間だ。
仕方ない。これまでそう生きてきたもの。
勉強だってそうだった。
学ぶ楽しさだとかがモチベーションになってなかった訳ではないが結局心のうちでは誰かに褒められ評価されることを望んできた。
俺はその「誰か」をずっと探してきたように思う。
朝10時。いつも起きるくらいの時間に、以前一緒にイベントを作り上げた子と久しぶりに電話をした。
noteの書き方を教えてくれ。昨晩そう言われたのだが、お互いに会議やらなんやらで翌朝に延期になった。体調は気ぃつけや(自戒)
彼女は行動力とコミュ力に長けた、主人公みたいな子だ。
インスタでフォローがきた見知らぬ東京の大学生とdmだけで仲良くなったらしい。心を閉ざして暮らす平凡な大学生には到底考えもつかない出来事である。
昨晩話せなかった理由を尋ねる。どっかの会社の社長と話してたらしい。
うん。何それ。社長ってそんな時間に話せんの?
深夜に話すのなんて友達と恋バナくらいやと思ってた。したことないけど。
「その社長が面白い話しててさー」
彼女の話し方はハキハキとしている。アナウンサーでもいけそうな明瞭さ。
「私3日坊主でさ」
昨日(正確には一昨日)note を更新出来なかった自分にもグサリと矢が刺さる。
そもそも更新「出来なかった」ってなんだ。なんか今日はいいやってなっただけだろ。この…ばかっ…!!
『物事を続けるには、もう一人の[自分]に監視させればいいんだよ』
少しでもいつもと違うことをすればもう一人の[自分]が戸惑い、止めにかかる。
だから、[自分]にばれないように行動する。バレても許容されるくらい。
しばらくすると、[自分]にとってその行動は習慣になっている。
だから、その行動を止めることは、「いつもと違うことをすること」である。
そうやって習慣化が始まる…らしい。
そうか。「誰か」は自分でもいいんだ。
自分じゃないな、[自分]だな。
これは一種の自律でもあり、他律でもある気がする。
問題は、[自分]にどれだけ高い位置から自分を見てもらうかだろう。
その意味で[自分]とは、自らのなりたい姿なのかもしれない。
じゃあ、結局自律か。
でも、「監視する」という考え方は他律的だ。
[自分]の見方によって自律か他律か変わりうるのは面白い。
[自分]の評価で生きていこう。
自分が[自分]に近づくために。