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自炊から家庭ゴミを再考する
30年ぶりの自炊生活。生ゴミがほとんど出ない。野菜の芯や皮もほとんどのものを一緒に調理して食べてしまうからだ。普段なら切って捨てるような部位や、茎、例えば他にもバナナの皮だっていろいろ調べると調理法がある。それも別に難しくないからバナナを食べるときにササッと作って食べてしまう。
食いしん坊のせいでゴミが出ないのか、ゴミを出さないために食べてるのか、自分でもよくわからない上にそれはどっちでもよくて、ゴミが出ないことと実験的なことをしているバランスがなんとなく性にあっている、ということなんだろうと思う。
ミニマリストを目指しているわけではないが、足るを知る、というのは清々しい。普通ならあるはずのものが無いこと、をいろんなフェーズで試しながら、いる、いらない、を吟味していく。と書くといかにも求道者のようだがそんなにストイックなことでもなく、どちらかといえば横着と適当さでやり過ごしている。詰まるところあまりこだわりを持たないことがコツである。
他にも、ドレッシングがなくてもなんとかなる。めんつゆと醤油と塩コショウ、コンソメ、オイルはオリーブオイルだけで半年以上自炊生活を続けるが別に困らない。味へのこだわりが薄いのか、確かに、外で食べても家で食べても不味いと思うことはめったにない。そういうタイプだからなのか、これもまた分からない。
話を戻すと、家庭ごみを減らすことは、個人にできる小さいけど意義のあることだとも思う。家庭ごみの処理だけでどれだけのコストとエネルギーを使っているか調べたらよく分かる。
そう考えると、僕らの日常生活は過剰さに麻痺している、といえば大袈裟、言い過ぎだろうか。シンプルさを取り戻すことは、生活のいろんな場面で出来るし、そういう実験的な暮らしを楽しむのが今の自分の状況である。それは、野性を取り戻す、ということなのかなと考えている。
無いならないでなんとかなる、を知るとなんか楽なのだ。モノへの執着がなくなる。それはやはりなんとなく清々しい。そして、実はこれは料理に限ったことではなく、依存するものを減らすことは自由を獲得する術でもある。
ただひとつ、七味だけは、切らさないようにしているのだけど。