仏ほっとけ神構うな
しばらくは、科学のキラキラ感をまぶしながら、ぐいぐい語る人たちに付き合っていことも、疲れ気味でした。
そうは言っても、現代社会を自分なりの価値観で生き抜きたいものです。
担当医
「アルゴリズムもロジックも限界には沼地があります。」
患者さん
「今どき、そんなこと言っても、効かない薬ばかり出す貴方が勉強不足でしょうよ。」
担当医
「うーん、勉強不足でもあるけど、効かないのは運でもあって。臨床は沼地のように、底なしだし、人間って不完全で、それほど、同じじゃないし、強くないけど〜」
患者さん
「実はね。私も色々はじけた時に脳の中に神様の居場所というか、ちょっと連想が膨らみ過ぎる回路があるような気がしてる。でも、そこについてはあえて語らず、普通の薬の話でお茶を濁して。科学らしく、そこそこ抑えることが、理性であり、ロジックだと思ったり。昼間っから、運や沼地なんて言ってると信用失ってしまうわよ〜」
担当医
「いつもいつも、なんか、すいません」
とりあえず、ある程度、分かるように説明したい、と思いました。
可能であれば、現実的で、形あるものや数値化できるものにとどまりたいと思います。
そう思っても、記憶や情緒、心的外傷は、数値化、言語化がしっくり馴染む時と、全く寄せつけない時があります。
その逆風の時にも、「瞑想」や「祈り」を思考停止や安易な神頼みにならないようにと思います。
屁理屈のような仮説ですが、脳の中の場所の問題かもしれません。例えば、視覚と聴覚、触覚と記憶の場所のズレが大事です。隙間というか、瞑想のスペースがあるのかもしれません。
表面的には「仏ほっとけ、神構うな」ポーズをとりながらも、無意識について、歴史を含めて、深く探究し、少しだけでも、善なるものに転換できるかどうか、が無難な修行の形かもしれません。ある段階においては。
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