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輪郭とトーラス

輪郭について

 ロッカーは30個ぐらいの箱からなっているけど、取っ手もボタンも番号もついていなかった。ロッカー脇の四角いLEDにレシートをかざすと、ぴっと言って、つるつるした小さなドアのひとつが勝手に開いて、中にレモンイエローの小さな楕円形のケースと白封筒の手紙が入っていた。国分寺駅の大きな通りを歩きながらレモンイエローの手のひらサイズのケースをぱかっと開いてみると、暗い赤色の眼鏡が肩膝折り畳まれてきれいにあったのと、小さな布も入っていて、これもレモンクリーム色をしていた。で,待ちきれなくて,歩きながら折り畳まれ方式の
眼鏡をひらきひらき、かけてみると、世界が綺麗すぎてびっくりした。
綺麗すぎてっていうか、なんていうか、
全ての人間に輪郭があるんだな、と思った。
駅を往くたくさんの人にすべて輪郭があった。
全員が、白く薄いベールみたいな輪郭と、虹色の輪郭を持っていた。
まじか。
輪郭って、
幼い頃は、すべての形に黒い輪郭があると思っていて、でもそれから絵などを学ぶうちに、『そんなものはこの世にはない』ということを知ったんだけど、今、10年ぶりに眼鏡を新調したら、いや、輪郭は世界に確かに存在する。世界には輪郭があって、しかもそれが『白い』ということに気づいちゃったわけだ。

トーラスについて

 生活っていうのは、家の建っている場所、収入、長いスパンでの精神、所有物、また捨物、みたいな諸要素のことで、人自身はその範疇ではないしまた食事そのものとも交わっていないところからスタートする。交わっていない物が交わっているようになることは人間の幸福として挙げられる色々なものに存在している要素のひとつで、その最たる例のひとつが食事だと最近気づいた。

 人間は一つのトーラス、トンネル、つまり口から肛門までは外の空間なのらしい。消化器官は外の空間であり、だから常在菌が住んでいたり、食べ物が通過したりするのだ。それでは私は食事と交わっていない、のかと思えば、しかし厳密には食事されたものはトーラス状の人間の身体を互いになんの干渉も変化もなしに通過するわけではなく、やっぱり栄養となる糖や脂質やタンパク質は分解されて吸収されて胆汁に染まり水分を抜かれ凝固して糞として出ていくわけで、そこに分子レベルの交わりが無数に存在するということは快感よね。五感でああ食べ物がおいしい、ということ以上に私はこれまではそういうあなたが私になることを美味しさとして食事を選んでいた。胃や腸や血管にそれを明確に感知する能力はなくとも(拒みはしてさえもだ)、また食事のあとで今あなたが私になっていますと考え直すことがなくとも、食事を選び口に運ぶその時の快感は少なくともそういう事実がおおきい。だから私はヤサイや豆や魚といったいわゆる健康的な食べ物を嬉しいと思うだな〜と気づいた。
 そんなこんなで、実際、それは服を着ることに似ている。私と交わり私になるあなたを意図して選びとること。そんなこんなで、住まいにも似ている。自己が空間へ拡張していくためのゾーンを作り出すこと。衣食住という概念は、つまるところだから生活三要素を並べたわけではなくて、その三つがすべて本質的に同じひとつのことを表しているんじゃないかと思う。

吾輩は…

 友達の、会話に関しての記憶があんまりない。表情と、声と、その日どの街に行って何をして遊んだのか、どうやって待ち合わせしたり移動したりしたのかはよく覚えているけど、カンバセーションをほとんど全く何も覚えてない。断片的には、もちろんある。けど、だから久しぶりに会う人には、いつもちょっと戸惑う。どうやって楽しくなっていたのか思い出せないから。思い出せないのは、知らないのとほぼ同じだと思う、だから、いつも、その人のことはよく知っているのに、その人と過ごしたことはよく知らないようなリセット状態で、遊びの待ち合わせがスタートする。それで、一緒に電車に乗ったりおしゃべりしたり買い物をしているうちにその人とどうやって会話していたかとかを思い出してきたら、やっと元通りになる。
 でもね、やっぱりごめん、あなたの出身地や、どんなバイトをしているか、どんなことを勉強しているのか、誕生日はいつか、そういうことはほとんどなにも覚えられないのよ。覚えてないのよ。

 知り合いが亡くなったと聞いて、それからしばらくひどかった。それを知った時は一番悲しいと思った。一日経ってから、突然またパニックが起こってベッドの中で泣き続けることしかできなくなった。でも、聞いただけなのに、それが事実になって、ものすごく揺さぶってくるのは、不思議なことだとも思った。それから、時間が経って、その人のSNSのアカウントを見た。まだ存在していた。写真も残っていた。それでもこの世にいない。どこにも今いないんだな。何を言っても、何を書いても失礼にあたる気がして、なんともいえない。ただもう一度いつか会えると思っていた。悲しいよ。何をしたらいいんだろう。またいつか会いたいよ。


 撮影の休憩時間に、なぜか皆んなでダニエル・シュミットの『書かれた顔』を観ることになって、田園調布の巨大なTVで観ましたが、物凄く良かったです。多様なシーンの中でフィクションもリアルも曖昧になって、ただそこにある身体、踊りだけがどちらでもある状態、架け橋になっているので、実際のところ、フィクションであること、作り物であること、リアルであること、みたいなのが段々どうでもよくなってくる不思議。ほいで撮影がやっぱめちゃくちゃにド上手くて泣いちゃいそうだった。構図が全部ずるい。構図だけでグオーとなります。

坂東玉三郎

 うえー。。。いいこと言いすぎ。。耐えられない。。

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