与えるも愛、受け取るも愛
「ものは言いよう」というけれど、「ものは受け取りよう」、だとも思う。
他人の言動は自分次第でどうにでも変換できると思うのだ。
ある友人が彼氏に「重すぎてごめんね」と言ったら、「そのままでいいよ、俺が対応変換できるから」と言われた、という惚気をぶちかましてきたことがある。
なんだそれ、最高!と思った。
その彼は、愛が重すぎる友人のヤキモチやら何やらを全て「愛だ!!!」と捉えるそうで。なんて平和な世界なんだろう。
そんな感じで誰かからすれば「重い」と言える友人の言動は、受け取り手である友人の彼氏の力によって「愛」となった。
先日読んでいたエッセイ本の中で、「与えるのはもちろん愛だけど、それを受け止めるのも愛」という内容がチラッと書かれていて、私の中にストン、とハマるものがあった。
「相手からの愛を重く感じてしまうのは、受け取り手の問題かもしれない」なんて、今まで考えたことがあっただろうか?
「重いか重くないか」その判断は、世間一般ではなく、重さを向けられたパートナーに委ねられる。
恋愛系のコラムでは、しょっちゅう「尽くしすぎはNG!男は追わせてナンボ!」なんて書いてあるけど、じゃあ尽くされてるのに逃げる男は一体何様なの?って話なのだ。
尽くしてくれる彼女がどうのこうのじゃなくって、「尽くされている…こんなに思われてるなんて俺には重すぎる…」って思ってしまうなんて、もったいないにも程がある。
「こんなに尽くしてくれるなんて、俺のことめっちゃ好きじゃん…ありがとう!!!俺も愛してる!!!!!」
こんな風に尽くされた側がスーパーポジティブに受け取れば、尽くした彼女もハッピー、尽くされた彼氏もハッピー。
そこにはウルトラハッピーな空間が生まれるのだ。
私も学生時代、上手く受け取れない恋愛をしていたことがある。
上手く受け取れなかったというよりも、上手く受け入れられなかった、が正解なのだけど、当時の彼が私に対してしてくれること全てが重く感じていた。
誕生日プレゼントをくれる、自分の体調が悪くてもデートに行きたがる、寝る前に電話をしたがる、LINEで常にずっと繋がっていたい…
恋人なら当たり前の気持ちなのに、「毎日学校で会うんだからこんなことしてくれなくていいのに」と思ってしまう自分が嫌だったのを、今でも鮮明に覚えている。
完全に「彼に恋出来ていなかった」んだと思う。過ぎた事だとしても、あの時の彼には本当に申し訳なく思っている。
何が言いたいかというと当時の彼は全く悪くないということだ。
ただ彼の気持ちを受け取って、「こんなに私を思ってくれるなんて嬉しい!!ありがとう!!私も好きよ!!」なんて言えれば、円満カップル成立、めでたしめでたし!って感じだったのだ。
彼のその気持ちを、踏みにじったのは紛れもなく私。
受け取り手の私のせいで、私達はダメになった。
恋人の存在ってつくづく不思議だと思うのだけど、「自分の人生に全く関係無かった人物が突然優先順位1位になる」みたいな現象が普通に起こる。
家族、友人と過ごす時間が平たくスケジュールにいたのに、恋人が出来た瞬間に家族も友人も何もかも、1位と堂々の差をつけての2位以下になったりする。
恋の凄いところはコレだと思っているし、私はこの現象を「脳のバグ」とか普通に言っている。
今の彼に対して気持ちがブワァと盛り上がる事がたまにある。そんな時は「落ち着け落ち着け…これはバグだ…付き合ったばかりだから…」と一旦落ち着かせるようにしている。
だけど逆の立場を想像した時、彼が私のブワァと同じくらいの温度で向かってきてくれたら…って思ったら、「全然オッケー!嬉しい!ドンと来いよ!!!!!」みたいな気持ちになるだろう。
先日私が「生存確認出来なくて不安!!LINE返せ!!!」と急かすようなLINEを送りつけた時も、私は自分のその言動に罪悪感を持った。
重いかな、嫌かな、彼の自由時間を奪っているのかな、と一瞬自己嫌悪に陥った。
だけど彼の反応は私の思っていたものとは全然違くて、「そんなに心配してくれるなんて!俺めっちゃ愛されてね?!嬉し〜!」という受け取り方だった。
私はそんな彼の言葉を聞いて安心出来たし、不思議と自分を受け入れられているような、深く愛されているような気持ちになった。
こうして気持ちの釣り合いがとれて、お互い安心できる関係になっていくのかな、なんて最近は思う。
これはもちろん、恋人だけでなく、友人や家族にも言える事なはずだ。
「愛は与えるもの」は間違っていない。
でも、与えられた愛がどんな形であろうとも受け取れるという事が、これまた愛らしい。
だから私は、彼がどんな形で愛情表現をしても、優しく受け取ってあげたいと思うし、
私がこれから与えていく愛情も、きちんと温かく受け取って欲しいと思う。
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