遥か昔からの花や木の根/sample
1
夕方の丸窓の向こうから百合やオランダユリの香りとともに、ハーモニカの音色が滑らかに応接室まで流れてきた。スカボロフェアのメロディーだった。
パセリにセージ、ローズマリーにタイム――。貴理子は歌詞を口の中で小さく唱える。それから、また自分の娘が学校から帰ってきたのが彼女にはわかった。
ハーモニカは昨年の誕生日に女の子に贈って以来、彼女のお気に入りで、この歌も人から教えられてからは毎日のように吹いている。子どもにはまだ早すぎる歌だから、あまり吹かないようにと言っているが全くききやしない。なので、こと彼女のスカボロフェアについての演奏技術は日々上達しつつあった。
「かつて、私は彼女の父上と同じ研究室に勤めておりました。義父が教授で、私がその助手です」
そう、洋卓越しの男が言う。対して、向かい合っている貴理子はかすかに相打ちを打つ。首を縦に振ると、玉になった汗がこめかみから伝った。
七月だった。時間の上では夜が間近であるにもかかわらず、開け放たれた丸窓から強い日差しが差し込んでいる。そのために応接室はストロボを焚いたように明るく、またうなじや脇の下がじんわりと汗ばむくらいに暑かった。窓の――病院の外が雲一つない素晴らしい青空だからだろう。七月だな、とうずくような熱気を背後に感じながら貴理子は思う。
「いうなれば恩師とか、師匠とかいうものでして、大学を出たての小僧っ子の時分には大変お世話になりました。巷で李鴻章が何のかんのと言われていたあたりのころですから、かれこれ二十年くらい前になるでしょうね」
閉じ切った両脚にいささかの気だるさを感じて、貴理子は足の向きを変える。右から左へ。椅子の背もたれが軋んだ音を立てる。ついで卓上に置いていた両手を膝の上に降ろし、丸まりかけていた背筋を伸ばす。そしてあらためて、彼女は来訪者の顔を眺める。
男は貴理子が今まで目にしてきた男性の中でも、四番目くらいに端整な顔立ちをしているように感じられた。往来で擦れ違ったら半日くらいは印象に残りそうな、でも次の日には忘れてしまいそうな……そんな容貌だった。
また男の肌は向きたてのゆで卵のように白く、つるりとしていた。それが細身の背広の着こなしているのとあいまって、話に聞いた年齢に見合わず、ひどく若々しく思われる風貌になっている。もし貴理子が何も知らないで、今日初めて彼と会ったなら、きっと二十代になったばかりの青年だと信じて疑わなかっただろう。
しかしそれらの要素が相手に好印象を抱かせるかといえば、一概にそうだともいえなかった。少なくとも今、男と相対している貴理子には何の役にも立っていない。むしろ美しさによって、かえって彼に対して嫌悪感を募らせていた。それは真昼の影のような濃淡や、おしまいの見えない井戸の底に似た深さを持つ嫌悪感だった。この世に存在する『美』というものは、全て善なるものに由来したものであると彼女は信じてやまなかったからだ。
「さて研究室と言うからには、やることは一つです」口を開く。
「当時、我々はある研究に当たっておりました。しかし不幸なことに実験中に突然、不測の――事故が発生しました。事故と言うのは総じて突発的なものですけれど、そのときのものはあまりにも急で――」
「致命的であった?」
「そう、致命的な事故でした。僕の義父、ないし彼女の父親はその犠牲になったのです」
「それは、お気の毒でした」貴理子は言う。
「あのときは僕も多少の怪我は負いました。一月は寝たきりでしたが、しかし妻の境遇に比べれば些細なことです。というのも彼女のお母様も、このあと間もなく身罷られましてね。義父の家に残ったのは彼女と、古くから仕えていた女中だけでした」
「それで奥さまとご一緒になられたと?」
洋卓の向こう側で男が緩やかに、しかしはっきりと肯く。それから噛みしめるような調子でさらに続けた。
「始まりこそ手放しで喜べないものでしたけれど、でも、わりあい僕たちはうまくやっていたと思うんです。僕は生まれてこのかた博打なんて手を出したことはないし、彼女と一緒になってからは酒もほどほどにしています。お給金はちゃんと家に入れていました。僕は常に夫として務めを果たしていたし、妻もそれに精一杯応えてくれました。そうでなければ、二十年も同じ家の中で暮らすことなんてとてもできないでしょう」
男がそんなことを言っているかたわらで、貴理子はシャツの胸ポケットからハンカチを取り出して、湿った首筋をぬぐう。窓から入ってくる陽光は依然として照り続いていて、背中を炙るように温めていた。夏は日が長い。
「子どもだって二人も出来た。いや、三人かな?」
初めて生まれた子どもは男の子で、今年で十九になります。弟の方は五つ下で、今年の春先に中学に入りました――。
「親馬鹿ながら、よく出来た子たちです。上の子は学校を首席で卒業しましたし、入学試験でも一番だった。下の子だって上出来とは言えないが、悪くはない。二人とも勤勉なんですね。人当たりもいいし、何より母親思いだ」
「羨ましい限りですわね」世辞だった。
「僕もそうですけれど、彼らもね、新しい兄弟が生まれるのを楽しみに待っているんです。なのに、今、僕はちっとも幸せじゃない」
あの子がいないからだ、と男がそう言い締めると途端に室内は沈黙に陥った。それは真夜中の海底みたいに深い沈黙だった。
そのあいだにもハーモニカの音色は途切れることなく続いている。パセリとセージ、ローズマリーにタイム。娘のお気に入りの楽句を貴理子は頭の中で繰り返す。潮と浜辺の狭間に土地を見つけること、それが出来たなら彼は私の恋人……。
胸中で歌詞をそらんじながら、貴理子はにわかに口を開く。楠戸さん。
「あなたも科学と真理に殉ずる学徒ならば当然おわかりかと存じますが、私どもが行う仕事はとても難しいものなのです。もちろん我々医師に任ぜられている仕事には簡単に済む事柄などは存在しませんけれど、とりわけ産科という分野では患者の身体と臓器を慎重に取り扱う必要性があるのです。なにぶん二人分の生命を預かるわけですし、身重の女性というのは本当にささやかなことで体調が変わりやすいのですから」
「なるほど。だから僕の存在は邪魔というわけですね」
貴理子は答えない。黙りこくったままでいると、男は大きく溜め息をつく。そうして背広の懐からシガレットケースを出しながら、こんなことを口にする。
――でも、だからって何も僕を殺してしまうことはないでしょうに。
§
飴宮医院の取り扱いは産婦人科である。まだ貴理子の夫が健在だった時分には小児科も兼ねていたこともあったのだけれど、彼が亡くなってからは取り潰してしまっていて、今では看板に貼り紙をして表記を消してある。
今から一年ほど前。もう六月も終わりに差し掛かったころだった。夜間の診療が終わってカルテの整理や薬品の注文書の作成をしていると、病院の玄関を叩くものがある。貴理子が近くにいた看護婦に様子を見に行かせると、彼女は長羽織を羽織った女性を伴って診察室に戻ってきた。
足元と着物の裾は泥が跳ねて汚れていたけれど、額は陰りがなく美しい人だった。年頃を訊いてみると四十を過ぎているはずなのに肌が滑らかで、少女のようにひどく若々しく見えた。その人が楠戸氏の(本人にとっては不本意であろうが)妻である紫だった。
*
二十世紀に入って十八年――明治が終わって十年以上が過ぎた現在、刑法においては人工中絶を行うのは医学的・経済的な理由を除けば罪ということになっている。にもかかわらず、飴宮医院には時折、後始末の相談をする者が訪れることがある。とある筋から斡旋されることもあるが、自ら病院に飛び込んでくるものも多い。
後始末を依頼する女性の中には、異性や身体的にも心理的にも暴力的な干渉を受けた者が多くいた。そしてそれは、肉体と精神を極限までに痛めつけるような激しいものだろうというのは理解出来た。楠戸紫もそのうちの一人だった。
本人の言によると彼女は大分長いあいだ、夫から意に添わない行為を強いられていたそうだ。お腹の子や先に生まれた二人の息子たちも、そういった暴力を受ける中で儲けられたものだった。
「ここに来れば、とても親切な先生がいると」
身ごもってからおそらく、四か月ほどだろうと紫は自分で言った。確かに下腹部の様子や触診、トラウベを使った聴診でも大方それくらいだろうというのは推測された。
紫から申告された年齢と身体の状態を鑑みるに、あまり良い状態ではなかった。流産の可能性もそうだが、血圧が高めで、手足にむくみが出ているのが気がかりだった。
そこで貴理子は『彼女』を飴宮医院に入院させることに決める。健康のこともそうだけれど、万が一夫に居所を突き止められたとしても、容態が悪い(彼女の場合は怪我などの問題があったが)と言えば顔を合わせることもなく、強引に連れ戻されることもないと考えたのだ。そして貴理子にはそれを出来るだけの権限を持っていた。
「私の息子たちはけして望まれて、この世に産まれてきたわけではありませんでした」
手術を施す前日、紫は病室でそう語ったのを貴理子は覚えている。午後の大分遅い時間、窓から差し込む陽の光が次第に陰りを含み始めて、明るい所とそうでない所とがはっきりと区切りが少しずつ曖昧になってきたときのことだ。
そのとき紫は病室の寝台に臥せっていて、貴理子はその傍で椅子に座って彼女が繰り出す言葉にひたすら耳を傾けていた。事態が決する前にどうしても話さなければならないことがある、と紫が貴理子に言ったからだった。
彼女が語ったのは区切りのない悪夢のように、いつまでも続く長い話だった。自分の父母の話や、幼いころに心にかかっていたこと。結婚した当時の家庭内の様子。そして自分があの男からどのような扱いを受けたのか、それについてどう感じたのか。そういう事柄だった。最後に子どもたちのことに辿り着いた。
「今現在二人が彼らをしているのは出産についての男の要請があり、私がそれに反対しなかった――いえ、出来なかったからです。しかし意に沿わないとしても、親として務めは果たさなければなりませんでした。子どもというのはその辺にある草花のように勝手には育たず、勝手に家の中に入り込んできた犬や猫みたいに放り出すわけにはいかないからです。それが否応もなく私に負わされた責任でした」
「私は確かに保護者として子どもたちに食事を与え、清潔な衣服を着せ、学校などに行かせました。けして大人みたいな労働を強いたり、むやみに叩いたり、打ったりたりすることはしませんでした。出来るだけ親切に、投げやりな態度にならないように、そしてなるべく彼らのことを好きになろうと心がけました。それだけは本当です。けれども私の奥深い部分では……そのときはわかりませんでしが、つねに怒りが煮えたぎってたようでした。そのような混乱状態にある中で、また新しく子どもを授かることになりました。
このことを知ったとき、私は彼らが新しいきょうだいを家庭に迎え入れるさまを想像しました。空想の中での彼らは、まだ見知らぬ妹か弟の誕生を喜び、感激していました。そうして赤ん坊には祝福を、私には労りの言葉を次々に口にしました。この茶番劇の裏側で、どのようなことがあったのか知りもしないで。
その光景を思い描いた瞬間、私の中で何か得体のしれない感情がこみ上げてきました。そうして自分がどのようなことを本当に望んでいたのかを、はっきりと知りました。心に努めて彼らを好きになるどころか、憎しみすら抱いていたのがわかりました。それは禁煙や禁酒を破る寸前のときのように深く、抗いがたい感情でした」
「不思議なことですが、私はそこで初めて二人が可哀想だと思いました。物心もつかぬ頃に里子に出せたなら、どれだけ良かったか。そこで真に望まれて育ててもらえたのなら、どれほど嬉しいことだろう。産まれてこないで欲しかったと、ある日どこかへ消えていなくならないかと母親に願われない人生を与えることが出来たのなら、どんなに素晴らしかもしれない」
「しかし結局私はその好ましい可能性を、いずれも選ぶことがありませんでした。私は己の言動の本質的な意味合いについて何一つ付与することがなかったのです。十八年と十四年のあいだ、二人の息子たちは本当の意味で母親から愛されることはありませんでした。
私達のあいだに友情や和解といった、甘やかなで――温かな行為に繋がりえるものなど最初からありませんでした。私のささやかな心がけなど、全て無駄で不毛あったというわけです。そしていま、お腹にいる子どもも同じです。私がこの子を心から認めることはありません」
「だからあなたはこの場所に来た?」
貴理子は訊ねる。だけれど紫は何も答えない。肯きさえもしなかった。ただじっと貴理子を見つめながら、続けてこう口にした。
「もしかすると世の中をくまなく探せば、どこかでこの子を可愛がってくれる人たちがいたかもしれませんでした。そしてその人たちは自分たちで愛し合って得た子ように、その子を育てたのかもしれません。
あるいはまた私も息子たちに対して、もっと善い振る舞い方をし得たのかもしれない。今でもそんな風に考えることがあります。しかし過ぎ去ってしまった年月は取り返しようがありませんし、そのような空想は私を慰めることはけしてありませんでした。私が私自身として生きることの出来る現実は今、このときだけだからです」
「明日にはあの男の子たちの弟か妹を、私はこの世界から完全に葬り去ります。一度も身が震えるような音楽を聞かせることも、目が眩むばかりの四季の光を見せることなく永久に。――これは私だけの勝手な都合であって、この子には何の関わり合いのないことです。でも私はどうしても、やり遂げなければなりません。そして、あの男が来ることが出来ない場所に逃げおおせます。そうでなければ私は私自身の過去や現在に起きた出来事について、絶対に納得することはないでしょう。納得が出来ないというのは、私にとっては死ぬことと同じです」
「もしあなたが望むならば、我々は彼に思い知らせることが出来ますが」
そう、貴理子は紫に訊ねる。すると彼女は静かに首を振って、それはとても難しいと思うと言った。
「先生のおっしゃった『思い知らせる』の意味が、もし私が考えたとおりであるのならば無駄なことです。どんな刃物も毒薬も彼の前には何の価値もありません。あの男は幽霊に過ぎないのです」
幽霊? 疑問を挟む隙もなく、紫は言葉を続ける。真っ直ぐに貴理子を見つめながら、何十年も前から根づいている山毛欅の木みたいに頑なな調子で。
「あの男を殺すことは、きっと誰にもできません」
*
爾臣民は父母に孝に、兄弟に友に、夫婦相和じ――と学校で教え込まれるように、この国では家族という概念を金の鵞鳥みたいに大事に扱っている。しかし親と子どもがいれば、何でもいいというわけではない。求められているのは健康な父親がいて母親がいて、どこの誰から生まれてきたのかがはっきりしていて、何より身体的にも知的にも障害や病気のない健康な子どもがいる家族だ。そのような家庭に生まれた子どもが大人しく兵役を勤めてくれたり、馬車馬みたいに働いて税金を払ってくれたりするとこの国の役人たちは根拠もなくむやみに信じているようだった。
だから明治の初めから、大正の今に至るまで堕胎罪というものがこの国には厳として存在している。そして法律として存在するのだから、体質や経済的な理由がなければ出産するのが(ただし聾唖者や、遺伝病の因子保持者を除いては)正しいのだと、多くの市民国民が何となく思い込んでいる。
飴宮医院の門を密やかに叩く女性たちは、この堕胎罪に抵触しかねない者たちが多くいた。たいていの場合それは自分の意思決定がないがしろにされた結果で、ことごとく世間の要求と自分の望みとの狭間で苦しんでいた。
懲役もそうだけれど、逮捕されることによって彼女たちが恐れたのは警察の取り調べや裁判によって自分の身に降りかかった事柄が表沙汰になることだった。己の屈辱と恐怖に満ちた体験が興味本位で消費されてしまうのを知っていたからだ。そして、そのこと以上に伴侶や恋人の目の前に引き出されることに恐怖していた。
なのでこのような女性たちは各々に必要な医学的な処置が終わって、体力が回復すると、とあるルートを通して安全に療養できる場所――宿舎まで送り届けられることになっている。
彼女たちはそこで勉強をし、仕事を得るための訓練をする。職場を斡旋される。飴宮医院でもそのような女性の幾人かが、看護婦として働いていた。(そして紫も――どれほどの歳月が必要かはわからないが――いずれは社会に戻っていくはずだ)場合によっては生活のために新しい名前と戸籍を用意されることもある。
そしてこれは奥の手だけれども、必要になればしかるべき筋を頼って、障害になり得るものを別の場所へ移動させた。帰り道さえわからぬような、遠い場所に。貴理子と関係者はこのことを『旅』をすると表現した。
『旅』をさせる対象は主に女性の配偶者や相手の男が圧倒的に多かった。彼らの一部は盗人に財宝を盗み出された金庫番みたいに、自分のものとから逃げ出した妻や恋人を執拗に追ってくるのだ。付きまとってくる男たちには彼女たちを自らの領域へ連れ戻せるだけの力を持っていて、一度彼らに見つかってしまえば、もう貴理子たちには手の打ちようがなかった。なので貴理子は女性たちと、その手の専門家のあいだの橋渡しをすることが多々あった。
*
今回の――楠戸靖史の場合には『旅立ち』は行われなかった。紫が彼を旅立たせることを望まなかったからだ。だから貴理子は彼女の言うことに従うことにした。本人を差し置いて、自分が勝手をするわけにはいかないからだ。
紫の体力が回復したのちに、貴理子が今まで見てきた女性たちと同じように彼女は宿舎に移された。それから一月近くが経ったときのことだ。彼女の夫である楠戸靖史が彼女を尋ねて飴宮医院を訪れたのは。
――僕は別に怒っているわけではないんです。
七月の終わりの夕方、応接室で煙草を呑みながら彼は言った。そして貴理子は楠戸氏と洋卓越しに向かい合っていて、窓から入ってくる日差しが汗ばむくらいに熱かったのを彼女は覚えている。このときもハーモニカの音色が流れていた。またしてもスカボロフェアだ。パセリとセージ、ローズマリーにタイム。
――でも大事なことを一人で抱え込んで、独りであれこれ決めてしまうのは僕を馬鹿にしているし、やっぱり悲しいと思うんです。僕は頼って欲しかった。まずは話し合いたかったんです。夫婦なんだから。
――先生、僕の奥さんとはどんな話をしたんですか。夫には聞かせられないことですか。
「楠戸さんは何か誤解をなさっておいでのようですが、私どもはあなたと奥さまのとのあいだに起こった出来事は何も存じ上げません。ここは医療施設であって、人生相談所でも縁切寺でもないのです」
「もし仮に奥さまが私の患者であったとしても、どのようなことがあったのかは、彼女の合意無くしてお話しすることは出来ません。医師にとって治療中のクランケから見聞きした物事は、未来永劫に渡って守らなければならない秘密であり、どのような責め苦を与えられようとも、けして第三者に明かすわけにはいきません。それは医師が守るべき義務として、ずっと昔から決まっていることなのです」
――古代のギリシアから?
「現代の帝都まで」
貴理子は彼の問いかけについて、そんな風に知らぬ存ぜぬを押し通していた。(仮に教えようとしても、彼女は紫がいる場所を知らないのでどうにもならない)しかし男は一向に納得しなかった。恐らく彼は自分の妻と貴理子にまつわる間柄に関して決定的な何かを掴んでいて、そのことが揺るぎのない態度に出ているらしかった。
けれども堂々巡りの問答が続くうちに男はじれてきたようだ。口調が次第に偏執さを帯びてきた。僕の奥さんと子どもを返してくれ! にわかに男はそう声を張り上げると、椅子から立ち上がって応接室を出ていく。貴理子はすぐにその後を追うと、廊下を大足で歩いている男の前に回り込んで立ち塞がる。
「ここは病院です。あなたの好きにはさせません」
男は歩を止めて、彼女を見下ろしながら微笑みを浮かべた。それはまるで真冬の夜明け前の湖に張った薄氷を思い起こさせるような、酷薄な笑みだった。そうして唇に弧を描きながら相手はこんなことを言う。
「じゃあ、あなたが妻の代わりになってくれるんですか」
次の刹那、ガラスが割れたような鋭い乾いた音がして、気がつくと貴理子は男の頬を打っていた。
降ろした掌がひりひりと痛む。わりあい強い力でぶったようだった。いささかの間の後にそのことを自覚すると、彼女は恐る恐る相手を上目で見遣る。すると、男の口元から笑みが消えて真顔になっているのがわかった。その表情が冷たいというか、何だか見ている方をひどくぞっとさせる印象がした。
相手の能面のような顔つきに気圧されて、貴理子は一歩後ずさる。すると急に男は踊るように身を乗り出し、彼女につかみかかり、首元に手を掛けようとする。もちろんむざむざとやられるわけにはいかず、貴理子はこれに抵抗をした。
争いは延々と続くように思われた。楠戸は執拗に首を狙い、貴理子は男の手を振り払って首を守ろうとする。
けれどもそのうちに、ふと男の掴む力が緩むときがあった。その瞬間を貴理子は逃さない。あらん限りの力で、相手を思い切り突き飛ばす。
竹を割ったような音があたりに響く。彼は壁に背中をつけた格好で立ち尽くしていた。しかしそれはほんの束の間のことに過ぎず、すぐに膝から崩れ落ちて床に伏せてしまう。そのずるずると下に落ちていく動きと同時に、壁紙に一筋の線が出来る。どうもぶつけたときに頭部が傷ついたらしい。だが、その色合いがおかしかった。
男の血は目が覚めるくらいに深い青色をしていた。それは磨き上げられた蒼玉を思い起こさせる、目を引いて虜になるような鮮やかさだった。そんな色の血が円状になって、じわじわと床の上に広がってゆくのを貴理子はじっと眺めている。その波がつま先まで来ると、彼女はようやく金縛りから解き放たれた。
貴理子は男の傍に寄って屈みこむと、首筋に手を当てて脈をとった。ついで両眼を覗き込んで瞳孔の大きさを確認する。もし必要があるなら治療を施さなければならないし、彼が助かる方法があるなら試してみたかったのだ。それが彼女の背負っている責任と義務だった。
貴理子は彼の気道を確保しつつ、胸部を圧迫して蘇生を試みる。しかし様子は芳しくなかった。依然として脈は止まり、呼吸も絶えたままでいる。瞳孔は大きく開ききった状態で、何の変化も見受けられない。もうどこをどう考えても、手の施しようがないのが明らかだった。彼女は自らが引き起こした物事の結果を受け入れざるを得なかった。
【本編へ続く】