変化する銀の鳥 1
人間どもが暮らす陸地から沖に出て、大きく離れたところ。潮騒や海鳥の鳴き声以外は何もないところに、珊瑚の磐座――瑠璃の虫、そして銀の鳥の三姉妹が統べる小島が浮かんでいる。
管理役の主領は長姉である珊瑚の磐座で、彼女はおもに陸地の形や川の水位などを調整する仕事をしている。二番目の姉、瑠璃の虫は島中の木々や草花の面倒を見るのが仕事だ。
そして末娘である銀の鳥に課せられた仕事はときたま旅に出て、姉たちが必要としているものや彼女たちにとって役に立つものを選んで持ってくることだった。たとえば花粉を運ぶ蜜蜂や蝶とか、草花の種を運んで土の肥やしを作ってくれる鳥とか、そのようなものを。そうして幾月もかかる旅を終えると、島にいるカモメや魚の友達と遊ぶ。そんな風に暮らしていた。
銀の鳥は自分の仕事を気に入っていた。色んな場所の様々な生き物の暮らしを見たり、たくさんの国で多くの珍しい音楽を聴いたりできるのだ。渦潮のようで、いつも頭をぶつけたように目が回ってしてしまう。でもその混沌としたにぎやかさが、銀の鳥はとても好きだった。
こうして陸地の各所を見聞しながら、気ままに旅をして暮らすのも、なかなか悪くはないかもしれないとも思う。しかし時が経てばやはり故郷に戻って来て、姉たちと抱擁し、友達と戯れるのだった。
友達たちのなかで、とりわけ仲の良いのは赤い髪のお魚だった。お魚は長く、立派な尾を持っている。けれど、波も音も立てずに上品に泳ぐのだ。その踊るような様を見るのが、銀の鳥にはとても楽しかった。こんなに尾が長くて泳ぎも上手なのだから、いくらでも威張ることが出来るだろうに、あえて慎ましくしているところもますます好ましく思えた。
お魚とは珊瑚姉さんの着物の裾――島の裏っかわにある、磯の海岸でよく遊んだ。海面を泡立てて絵を描いたり、小さな波を起こしたり、潮だまりで軽く水浴びをしたりするのだ。そうして遊び疲れるとお魚はおやつに小さな貝や蟹を持ってきてくれた。そのお礼に銀の鳥は木の実や、毒のないきのこをお魚にあげる。
「今日は氷をとってきたから、鳥にあげる。このあいだ沈んだばかりのお船の近くにあるのを削ってきたから、きっとおいしいよ」
お魚が水面から顔を覗かせて、薄紅色に染まった氷を差し出した。どうも、けっこう深いところまで潜っていたらしい。息が上がっていた。ありがとう、と銀の鳥は受け取る。
「うちもクコの葉っぱをあげる。今朝生えたばかりだから、きっと元気が出る」
二人は氷を舐って葉っぱを齧りながら、岩場の上から海を眺める。波のうねりが昼過ぎの陽の光を照り返し、不規則にちらちらと光を放っていた。その光はちょっとした魔法めいていて、ずっと見つめていると次第に眠たくなってくる。とろけるような快いまどろみの中で、銀の鳥は友達の声を聞く。
「ね、明日はいつに来る? 朝? それともお昼?」
「明日はだめ。朝から北の方に行かなくちゃ」
そう銀の鳥は言う。
「じゃあ明後日は会えるだろう」
「だめ、行けない」
「なら、明後日の次」
「会えない。ずっと、ずっと遠いところだから」
相手からの返答に、魚の頬が膨らむ。きっと、もっと遊びたいのだろう。それは銀の鳥も同じだ。お魚のことは嫌いではないし、一緒に遊んだら楽しい。でも目の前の友達と等しいか、少し多めくらいに姉さんたちの方が大切だった。
このような銀の鳥の持つ機微を、お魚も汲んでくれているらしい。どんなに拗ねていても旅発つときになれば、きちんと見送りに来てくれる。
「必ず戻ってくるね?」
「うん。きっと帰ってくる」
「どこかで死んだら嫌だよ。勝手をするの許さないから」
友達の言葉を受けながら、銀の鳥は飛び立つ。そしてしばらくすると戻ってきて、姉さんたちに品物を渡す。しばしの休息を取ると、またどこかへ出かけていく。そんなふうに銀の鳥は仕事に精を出し、その成果が二人の姉さんへの助けとなって島はますます栄えた。
そうして三姉妹が仕事に励みながら幾星霜を経た、あるときのことだ。島の浜辺に貝殻や宝石、大小さまざまな魚、そして死んだばかりのクジラが打ち上げられるようになる。
出どころがよくわからないので、長姉の判断ですべて棄ておくことに決められた。魚やクジラは土の肥やしになるのに、もったいないことだと銀の鳥は思っている。だが、ただより怖いものはないと姉さんたちは言う。そしてこんな会話をしているあいだにも、波に乗った品物はどこからともなく運ばれてきて、島の中でどんどん増えていく。
それからしばらく経ったころ、深海の御殿から使者としてサケガシラが来訪した。なんでもワダツミの皇子が銀の鳥を見染めて、妃として御所望なのだという。また流れ着いた石やクジラは結納の品であるとも。
「海は万物を養い、土の上に生きるものはそれを奪う。これまで賜った数々のご恩に報いるように」
いきなりのことに銀の鳥はひどく戸惑う。どんな顔をしているのかもわからない奴に身柄を求められたのもあったけれど、何より自分がこのような浮ついた話に関わる年頃になっていたのに驚いていた。
銀の鳥にとってはこれが初めての経験だったが、姉さんたちには今までいくつか求婚の話が来ていた。でも、ことごとくつっぱねて独り身を通してきた。彼女たちにとっては一度きりの結婚式よりも、島の統治の方がおもしろかったのだ。だいたいの求婚者は少し脅してやれば引き下がるのだが中には諦めの悪い奴もいて、あまりに食い下がるから、姉たちと一緒に八つ裂きにしたこともある。そんなぐあいだったので、自分がどこかに嫁ぐというのが具体的にどういうものなのかが、銀の鳥にはまったく想像がつかなかった。
だから初めのうちは、この話は断ろうと考えていた。残った姉二人が心配だったし、お魚を始めとした仲のいい友達とも別れるのは名残惜しかったからだ。なにより、自分が去った後の仕事のことも気がかりだった。
このような自分の考えを伝えると姉さんたちはとても喜んで、破談のために力を貸してくれると言ってくれた。だが、どうも分が悪いらしい。
海は生命の源だ。陸にいるすべての生き物は海水の中から来ていて、それは瑠璃の姉さんも銀の鳥も同じだ。だから誰もワダツミには頭が上がらない。磐座である珊瑚の姉さんだけは少し違うようだったけれども、力関係においてはあちらの方が上だった。
なにせ相手は石を穿いたり、岩を削り取ったりできるのだ。いくら珊瑚の姉さんが頑丈で、どんなに意気軒高な心持ちであっても敵わなかった。敵わないが、おとなしく譲歩するわけにはいかない。こっちには、こっちの事情があるのだ。
結局話の落としどころとして、島と海中を半年ごとに行き来する条件で決着した。銀の鳥はがっくりと肩を落とす。だが一方では、ほっとする部分もないではない。結果は振るわなかったけれど、こちらの意向を伝えられた分だけよかったとも考えている。
それにあのまま黙って相手に従っていれば自分は海の中に行きっぱなしになっていたはずで、それが定期的に島に帰れるようになったのだから、これはまだ上等だと言わなければならないだろう。もっと悪い方に転がった可能性もあったのだから。
しかしそれでも珊瑚姉さんや瑠璃姉さんにとっては、とてもつまらないようだった。どうにも相手に丸め込まれたと感じたらしい。そんな反感が切歯扼腕に留まるうちに、婚約の話はとんとん拍子に進んでいった。
そして婚礼が間近の迫った夜。珊瑚の姉さんと瑠璃の姉さんがやってきた。一番上の姉が持ってきた白鞘の短刀を、銀の鳥の眼前に差し出しながら言う。
「これは私の中で一番上等な石を用いて、私の中で最も熱い火と冷えた水を使って鍛えた刀だ。嫁入りの日には、これを懐に隠して皇子の許においき。もし夫がお前の心身を弄び、誇りを汚すことがあれば、この剣で突き殺せ」
「それは夫の後に、私も死ねということですか」
銀の鳥がそう訊ねると、珊瑚姉さんの口元に薄笑いを浮かべる。
「何という世迷言を。小賢しく愚かな男は死に、お前だけが生き残るのだ。そしたら、また私たちの島に帰っておいで」
そのような長姉の言を受けて、瑠璃の姉さんが言う。
「お姉さまの御説はごもっともです。しかし人柄と時機は見極めるべきですし、どのような方に対しても礼儀というものがあります。裸身や抜き身のままではいけません。あたしの身体を削って柄と鞘を作りますから、それに刃を納めて持っていきなさい。拵も一緒に考えましょうね」
彼女たちの話を聞いていて、銀の鳥は何だか寂しくなってしまう。大きな理由はもう少しすれば彼女たちのもとから離れて、顔も知らない相手のところへ行ってしまうという事実だった。けれども相手が善い奴なのか悪い奴なのかもわからない段から、血なまぐさいことを考えなければならないのが一番に哀しかった。
しかし何も言えないまま、銀の鳥は姉から短刀を受け取る。そして姉たちが寝静まったころに臥所からひそかに抜け出し、独り、磯の海岸に向かう。そうして岩の上でずっとぼんやりと星空や月、そして夜の海を眺めていた。
今晩は満月から三日目の、居待月だった。欠け始めているとはいえ、あたりにはまだたっぷりと明かりがある。眩いばかりの月光が絶え間なく騒めいている波間に反射して、瞬くさまはかがり火のように見えた。銀の鳥はそこからにわかに視線を、自分の手元に落とす。ついで飾り気のない白鞘から短刀を抜くと、刀身が鋭くきらめいた。
いつかこれを使う日が来るのかしら。断末魔や両手が濡れた感触ことを考えると、銀の鳥は体の奥がしんと冷たくなるような心持がした。ぞっと背筋を駆け上がっていく感覚が走る。その瞬間だった。
ばしゃりと大きな音が響いて銀の鳥は、思わずわっと叫び声を上げてしまう。どうやら水が跳ねたらしい。同時に朗々と透き通るような声で、誰かがこちらへ呼びかけてくる。
すぐさま顔を上げるとこちらから少し離れたところ……もう少しで沖合に出るかもしれないところに、あの赤い髪のお魚が水面から顔を覗かせていた。
「こんな時間に何をしている?」
そう、お魚が声を張り上げて訊ねてくる。突然の出来事に答えに窮していると、ふたたび海面にしぶきが上がり、お魚は水の中に姿を隠す。暗い中一生懸命目を凝らすと、相手がもっとこちらへ近づいてきているのがわかる。やはり音を立てない、滑らかな泳ぎ方で。
まもなくお魚は、銀の鳥が腰かけている岩場にあがる。
「それで誰かを待ってたの?」
銀の鳥の足元で頬杖をつきながら、お魚が再び口を開く。
「ううん、海鳴りを聞いていたんだ。眠れないときには、落ち着くから」
「ふうん。で、その刀は?」
銀の鳥は相手に刀を貰った経緯を語って聞かせる。そのあいだお魚は静かに、相手の声に耳を澄ませていた。まるで息絶える寸前にこぼれた、とても小さな言葉を聴き取ろうとするみたいに。そして銀の鳥が話し終わると、お魚は少し思案してからゆったりとした調子でふたたび口火を切る。
「君のお姉さまの考えはよくわかるよ。でも僕が彼女なら、妹の仇を自分で噛み殺しているところだ」
「珊瑚姉さんは私のことを信じてくださってるんだ。自分のことは、自分で始末をつけられるって」銀の鳥は言う。
「妹のことを可愛いと思っているのに、その手を汚させるのか。僕とはそのあたりは気が合わないな。僕なら君に怖いことは絶対させない」
そう、とだけ銀の鳥は返す。唇を動かしながら月光を反射する刀身に目を落とす。刀は極めて美しく鍛えられていて、これが汚れる刹那のことを思い描くと、やはり怖い感じがした。
刃物を見据えたままひたすら黙り込んでいると、不意にお魚が口を開く。恐ろしい武器にもいいところだってあるのだ、と――。
「人間の世界では心中というものがあるのだろう。お互いに刃物で相手を切ったり突いたり、一緒に首を絞め合ったり、崖から飛び込んだりするんだろう。そんなのが、僕のところにもときどき落ちてくるよ。僕がいるのはだいぶ底の方だから結んだ縄が水を吸ってぐずぐずになって、離れ離れになってしまっているけれど。ああいうのは、とてもいいものだね。フグみたいに体が膨らんでいても、顔が幸せそうに見えるんだ」
「珊瑚のお姉さまは、一緒に死ぬ必要はないって言っていたけれど」
「うん、そうだね。でも、僕は知っている。君は独りだけ生き残って平気な顔はしていられない。きっと起こらなかった物事に後ろ髪を引かれたまま、ずっと過ごすことになる」
だったらすぐに死んだ方がましだろう。そんなお魚の声を、銀の鳥は唇をまっすぐに結んだまま聞いている。ついで、お魚はこうも言う。
「君は本当に寂しいということが、どういうことなのか知らない」
その晩から数か月後。とうとう輿入れの日がやってきた。刺しゅうを施した黒地の打ち掛けを纏い、金色の華やかな帯を締める。その帯と着物のあいだや、袖の袂にいくつもの石をしまう。そして姉さんからいただいた短刀を携えて、銀の鳥は遣いの者どもとともに海に沈む。
陽の光を受けた波紋の影が、粗い網目のように浮き上がり、ぐねぐねと頭上でうねっていた。深く沈んでいくうちに、そんなまばゆい明りはしだいに小さくなっていく。同時に青い水の色は徐々に濃厚になっていき、あたりはどんどん暗くなってきた。
やがて自分の手さえも見えなくなったころに、アンコウたちがぽうっと提灯に薄明りを灯す。
「底まで落ちていけば、また目が眩むようになりますわ」
提灯持ちの誰かが言う。対して、それはけっこうです――と銀の鳥は簡単に答える。しかし内心ではあまり信じてはいない。相手の言葉が本当なのかどうかは疑ってかかっていた。
入水してから、いったいどれほどの時間が経ったのか。頭がぼんやりとしてきた。体全体が大きな手で握られているようで、ひどく息が苦しい。それでも水の中を落ちつづけていると、ある瞬間、ぱっと目の前がいきなり青白くなった。
急に視界に灯りが戻ったせいか、両目の奥がぎゅんとしぼむように強く痛む。激しく風に揉まれたみたいに、耳鳴りが起こって身体がくらくらする。でもそれは一瞬だけのことで、まもなく銀の鳥は正気を取り戻す。ついで、あたりを見回した。
落下している銀の鳥の眼下――頭の下に茶色い街がある。穴がくりぬかれた岩が、積み木のように重なって組み合わさっている。その窓だか入り口だかから青白い光が漏れていた。どうやらあれは家であるらしい。その奥の方に息を潜めている気配を、銀の鳥はにわかに感じ取る。じっとりと、まとわりつくような粘りのある気配を。
「誰もがお妃さまのお姿に畏まっているのでございます。表に出して、頭を下げさせましょうか」
建物の合間をまっすぐに進んでいると、お附きのホウネンエソがそのように耳打ちしてきた。対して、銀の鳥は首を横に振る。ひっそりとしているのに、無理強いするのはよくない気がしたからだ。
そのまま銀の鳥たちは泳ぎ続けていると、ある瞬間、ひときわ大きい石組みの建物が眼前に現れる。どうやらここが皇子のいる御殿であるらしい。街にあったような単色で武骨な石だけではなく、どれもきちんと磨かれていて、まな色とりどりの奇麗な石も使われている。
御殿のぽっかりと開いた入り口のところ。行列とは少し離れたところで、何者かがふよふよと泳いでいる。誰かはこちらが寄ってきていることに気がつくと、それは気さくな調子で銀の鳥の名前を呼ぶ。あの赤い髪のお魚だった。
「うん。思ったとおり、ちゃんと似合っている。とても」
銀の鳥は相手の姿をしげしげと眺めた。お魚は自分と同じように、立派な服を着ていた。裾が引きずりそうなくらいに丈のある白いマントの下に、黒い甲冑を纏ってひどく偉そうな風貌だ。そして真実、偉かった。
「あたりまえだろう。今日は僕たちの婚礼の日なんだから」
「結婚するの? 私たちが?」
「そうだよ」
突然判明した事実にあっけにとられて、銀の鳥は目をぱちくりさせた。一方で、こうも考える。このお魚とは長いつき合いの、一番仲の良い友達だ。もしかしたら、これからの生活もうまくいくかもしれない。そして実際ある程度のところまでは、歯車は順調に回転した。
【続く】
次回