ケーキ刑
起床のラッパが響いたのと同時に目が開く。身動ぎをすると、腰と膝がびきびきと痛む。一晩中、身体を縮めていたせいだろう。体の大きさに対して、ベッドが小さすぎるのだ。そして首や肩、胸元が痒い。たぶん横向きになったときに、ぴったりと肉が重なって汗ばむのだと思う。このごろはいつもこうだった。入所したころはそうでもなかったのだけれど。
新しい囚人服に着替えて、洗面台に向かう。コンクリートの壁に引っ掛けられ鏡に、ぱんぱんに丸くなった僕の顔が映る。まるでコンパスで描いたみたいな丸みだ。もちろん厳密に計算されて描かれているわけじゃないのだけれど、つい自分でも面白いなあなんて思ってしまうくらいに、丸い。目や口が鉛筆てさっと書いたように細いのも、さらに愉快な印象を深くする。
そうして少しだけ寂しかった。鏡面に現れた面差しは僕自身のもので間違いないはずなのに、なんだか自分でない気がするのだ。ここまで太ってしまうと、あんまり現実感がなかった。
歯を磨いて洗顔をした。ついで髭を剃り、保湿クリームを塗る。身支度がちょうど終わるころに、独房の外から雷鳴に似た音が響く。そのなかにいくつか、靴音が混じっているのがわかる。3人くらい。これは、いつもどおりだ。
物音と靴音は次第に大きくなり、やがて僕の室の前で止む。まもなく扉が開き、台車を引いた刑務官たちが現れる。作業場まで自分で歩くと時間がかかるから、毎朝この上に載せられて移動するのだ。
2人の刑務官がそれぞれ僕の脇や膝の下に手を差し入れて、体を持ち上げた。溜息もなく、紙みたいに軽々と。そうしてマットの上に僕を運び込む。その手つきは本当に慣れたもので、まったく無駄がない。そうして台車に載せると、長い廊下を押していく。
僕の室は刑務所内の一番端にあり、作業場はその反対側――つまり対角線上に存在する。そして廊下は単独室や共同室に面していた。だから運搬される僕の姿は、おのずと他の受刑者の目に晒される格好になる。
一度動き始めた台車は留まることを知らず、ごろごろと音を立てながら前に進む。定規で引いて描いたみたいにまっすぐな廊下の左右には、鉄製の扉が規則正しく並んでいた。鉄扉の向こう側には他の受刑者がいて、その誰もがみな僕のことを知っている。
けれどもなんてことはない。みんな僕なんて全然気にかけてはいなかった。きっと着替えたり、ベッドシーツを畳んだり、洗濯物をまとめたりで忙しいのだろう。それに僕が通りかかるのは毎朝の出来事なので、もはや興味を失っているのだ。しかし、どこにでも物好きがいる。
1つのドアに差し掛かったとき。突如として硬く、鋭い衝突音があたりに鳴り響く。ふとそちらの方へ視線を流すと、のぞき窓から誰かがこちらを見つめているのがわかる。……23番だ。彼は僕の体形の変化を、毎日事細かく記録していた。
「おい、ジャンキー。お前の手首、きのうよりガチョウの羽2枚分くらい縮んでるぜ」
そうか、ありがとう――。そう僕は返しておく。彼は得意げに笑う。けれども、それはわずかなあいだに過ぎない。まもなく刑務官が扉に警棒をフルスイングさせたので、笑い声はすぐに怯声に変わる。じかに殴られるよりはいいだろうが、やはり怖いものは怖いのだ。鳴り渡る残響の最中で戸板がびりびりと震え続けているのも、なおさら不穏さに拍車をかけていた。
よけいな口を叩くな。台車のハンドルを握る刑務官がそう耳元で囁く。どうやら腹に据えかねているらしい。しかし僕が何も言い返さずに素直に頷くと、相手はもう口を開かなかった。そうこうしているうちに、僕たちは作業場につく。
両開きのドアが開かれると、ちょっとした会議室くらいの広い部屋が現れて、砂糖が焼ける甘い匂いが鼻をくすぐった。同時に、何者かのすすり泣きが僕の耳に届く。キッチンの方を見ると白いコックコートを着た受刑者――製菓係が、調理台の前で両膝をついている。
その脇には監視役の刑務官が、警棒を弄びながら立っていた。どうも、製菓係はこいつにしこたま殴られたようだ。鼻からだくだくと血を流れ、左目がぽっこり腫れていた。そんな相手に向かって、刑務官は叱責する。
「交代までまだ3時間以上もあるぞ、動け!」
製菓係は調理台に手をかけて、のっそりと立ち上がる。寄生虫に取りつかれた鹿を思わせる緩慢さで。そうしてボウルに突っ込んであった、泡だて器を握ってかき回し始める。
そんな様子を眺めているうちに、僕は自然と眉が寄ってしまう。調理中でも彼はほろほろと涙を流しているし、鼻血もぽたぽた落ちるのだ。いちおうどこかで火を通すはずだから、衛生的には大丈夫なのかもしれない。けど、あんまり良い気分じゃなかった。もっとも、それを含めての刑罰なのはわかってはいたけれど。
調理台から少し離れたところに、クロスがかけられた長テーブルが置かれていて、その前まで台車で運ばれる。載せたときと同じ要領で、僕の体は椅子に移される。そうして席につくと同時に、いくつものケーキスタンドが僕の前に運ばれてきた。
2段や3段重ねになっているスタンドにはそれぞれ小さいエクレアやタルト、あるいはカップケーキなどが満員電車みたいに隙間なく乗っかっている。その周りを取り囲むようにして、平たいスタンドが次々に置かれていく。バターケーキとデビルスケーキ、おまけにチーズケーキがまるまる1ホールずつ。
このようにして卓上がまたたくまにケーキで埋め尽くされる。そしてもはや1ミリも隙間がなくなると、僕は目の前にある物を適当に引っ掴む。もちろん取り皿やフォークは用意されている。けれど、手を使った方が一番早いのだ。
クリームのべったりとした感触と、ねばっこい甘みが舌の上に広がる。ほろほろと崩れていく生地を適当に噛んで、飲み下す。ついで食べ物は喉の奥に降りていく……はずだった。
でも、そうは問屋が卸さない。まるではねつけられたみたいにケーキは逆戻りしてきて、僕はえづいてしまう。嘔吐剤が入っているのだ。簡単に食べきってしまわないように。
逆流してくる内容物を、もろとも無理やり飲み込む。もちろんつらい。しかしどうせ吐き出しても、無理やり突っ込まれるので同じことだった。
食べ進むにつれて胃袋は重みを増し、喉が詰まったような感じになる。そうしてひたすら顎を動かし続けているうちに、息を吸うことと食べることの違いがだんだん曖昧になっていく。呼吸が上手くできない。咀嚼するたびに、ぼふぼふと鼻が鳴った。なんだか犬みたいだ。実際、そういう扱いだからあながち間違じゃないかもしれなかった。
ズボンに暖かいものがじんわりと広がった。つんとするアンモニアの臭いが、砂糖やバニラの香りと合わさって、何ともいえない臭気をあたりに放つ。異臭にまみれた濡れた布地が肌に張りつき、だんだんと冷えていく。
正直に言えば、とても不愉快だ。でも、どんなことがあっても席を立つのは許されなかった。なにがあろうとケーキを食べ続けなければならないのが、僕に与えられた罰だった。
ケーキスタンドは空いた端から片づけられ、新しいものが次々と運ばれてくる。そんななか。不意に呻くような、低い泣き声が耳につく。
上目づかいで調理台を見やる。きっと、今度はパイでも作っているのだろう。製菓係の受刑者が、今度はめん棒を転がしているのが目に入る。白衣の胸元は血に染まっていた。酸化してはいない、まだ鮮明な色合いだ。血を流し続けても、なお彼は手を止めなかった。ときどき小突かれ蹴りつけられながらも、ひたすら働き続けていた。
そんな姿を眺めていて、自然と涙が零れる。懲罰用ケーキの製作を担当するのは、調理師免許を持つ受刑者と定められている。きっとたくさん勉強や修行をしたのだろう。でも、こんなことになってしまった。今の彼は誰かを喜ばせるためではなく、苦しめるためにお菓子を作っている。それは見掛けだけなら些細だろうが、本質的には取り返しのつかない変化だった。
そんなことを考えるあいだにも涙は止まることを知らず、熱を持った雫が頬を伝っていく。生地の上に落ちる彼の血も涙も、もはや不愉快に感じなかった。
「傷の舐め合いだな」
そう誰かが僕の傍で言った。
(2021.8/おおよそ3200文字程度)
ヘッダー:Chris Jarvis@unsplash
この作品は白蔵主さん主催の風景画杯に参加しています。
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