グリゴリの結婚(前編)

 裁判で死刑と判決が下ったので、私は拘置所の独房に入れられた。処刑日は知らされていない。順番が決まれば午前中に刑務官が来て、いきなり絞首台に連れて行かれることになっている。だから自分の命は、今日の朝とも明後日も知れない。そんなときになって、子どものころの夢を見た。

 夢の中で私は小学生に戻っていた。そうして美術館に行って、クラスメイトと列になってぞろぞろと歩いている。誰一人としてはぐれ者のない、奇麗でまっすぐな隊列だ。その先頭には先生と一緒に学芸員の人が並んでいて、絵画について説明をしてくれていた。どうやら社会科見学であるらしい。順路に従って進んでいると、不意に私の脇に横道が現れる。

 横に伸びた通路は暗い色のカーテンを幾重にもかけたみたいに薄暗かった。けれども目をこらすと、かろうじて壁だかパーテンションに額縁が掛けてあるのがわかる。そういう風な展示物かなと思っていると、先生や学芸員さんをはじめとしてみんな素通りしていく。通路の奥で何かが小さく光っている。それは橙色がかった黄色い灯りで、見ているうちにどんどん大きくなってゆく。
 私は少しだけ歩調を落とす。すると正しく整えられていた列が乱れて、一人だけ外にはみ出してしまう。けれども何も言われない。列の並びはアルファベット順で、私の苗字はWなので並びとしては最後になる。だから誰かに隠れて密かに何かをするには、うってつけの立ち位置だった。
 そうして通路の向こう側じっと眺めていると、光は一度としてその場に止まることなく近づいてくる。距離が縮まるにつれ辺りは次第に明るくなり、逆光の中で何者かの輪郭が浮かび上がる。いささかもすると、闇の中からカンテラを下げた男の人がぬうっと姿を現す。

 長い編み上げブーツを履いた男だった。靴はよく手入れされているようで、磨かれた革目がてらてらとカンテラの明かりに照っている。その輝きは、白いシャツとズボンというシンプルな男の出で立ちを際立たせていた。
 相手が歩いてくるのをじっと見つめていると、やがてお互いに目が合う格好になる。途端、彼がこちらに向かって手招きをした。けれども私は二の足を踏む。まだ誰も気がついていないが、みんなとは少しだけ距離が出来き始めてる。このまま道を反れても、すぐにはわからないかもしれない。でも、いずれは異変に気がつくはずだ。そのときには何が起こるかを考えると、私は目も当てられなかった。子どものころの私にとって、先生や親から怒られるのがとても怖かったのだ。そしてまたそれ以上に怖ろしく、重たい罰が存在するのをこの時分の私は知らなかった。

 ぼうとその場に立ち尽くしているしていると、男がこちらに手を伸ばしてくる。まるで餌を食べるのに夢中になっているネコを捕えようとするみたいに慎重に、ゆっくりと。彼の指先が腕を掴む前に、私は通路に飛び込んだ。無理やり引きずり込まれるのは嫌だったのだ。もしある方向へ進まなければならないのなら、自分の足で向かった方が絶対に良いと信じていたからだ。

「ああ、よかった。こっち来てくれなくては、どうしてくれようかと思った」

 そう男は言う。まるで崖の縁にいたのをなんとか踏みとどまったとでもいうような、本当にほっとしたらしい調子だった。そしてこちらに来たのを喜んでいるのがわかった。
 いやあ、よかった。よかった。そんな風に口にしている男を尻目に、私は目の前にある一枚の絵に釘付けになっている。

 それは3人の女の人を描いた絵だった。中心に描かれたテーブルには若い女の人とお母さんくらいの人、おばあさんが座っていて、みんなそろってサラダらしいものを食べている。それぞれの顔つきに似通ったところがあるから、もしかすると家族か親戚なのかもしれない。
 しかし食卓には楽しそうな雰囲気は一切感じられなかった。食器を見据える彼女たちの眼はことごとく吊り上がり、眼光が絅々として鬼気迫るようで、見ている方も何だか追いたてられるような気分にさせられた。ひょっとしたら彼女たちが不機嫌そうなのはサラダにドレッシングも、トッピングも何も加えられてないせいかもしれない。ボールいっぱいに盛られた目にも鮮やかな緑色の葉っぱは、料理ではなく、純粋な植物の集合体にしか見えなかった。

 そんな絵をじっと眺めているとふいに視界が暗くなる。ついで両方の目蓋にわずかな圧迫感と、ほのかなぬくもりを感じた。

「あまり長く見ちゃだめだよ。この絵はまだ君が理解するには早すぎる」
「じゃあ、なんでここに展示されてるの?」
「まず美術館は展示ありき、という君の認識は間違っている」

 男が何かを言い始めた。

「美術館の主な使命は作品の収集と保存、そして普及であって、展示はそのいくつかの仕事の一つでしかないんだ。つまり率先して君たちの目を楽しませようとしているわけじゃあない。それに芸術には様々なテーマやモチーフが存在するし、この場所に来るお客さんにもいろんな人がいるからね。全部が全部の相性にぴったりと当てはめるのは難しいのさ」

 小難しい言い回しで何かを誤魔化そうとしている感じはなかった。むしろ自分の誠実に述べようという気概が伝わってきて、そこに自己保身や虚栄心が存在しないのが何となく理解できる。その分だけ厄介だった。おそらく彼は自分の言い分が一切の齟齬なしに、こちらに100パーセント理解されるだろうと考えている。相手が混乱したり、戸惑ったりすることになるのは想像の範囲外なのだ。

 そして、それは私も同じだった。彼に下手な問いかけをしたことを私は後悔している。コミュニケーションをスムーズに進め、自分の疑問を晴らしたいのなら、私はまずは相手にこう訊ねるべきだったのだ。見せたくないものがあるのなら、どうしてこの場所に招いたのですか?

「別に見せたくないわけじゃあない。物事にはしかるべきタイミングがあり、君とこの絵にとって今はその時じゃあないということなんだ。そしてここには君が見るべきものがちゃんとある」

 そこまで言い切ると、男はおもむろにそうだと声をあげる。右足を出してくれ、と目隠しをしたまま男が言う。そのとおりにする。続いて左足を出すようにと告げた。そうして再び右足と何度か同じことを繰り返しているうちに、私たちはおのずと前に歩き始めている。
 2つの靴音と、ランタンが揺れる金属質な音だけがしきりに耳につく。どれだけ進んでいるのかはわからない。そんなに遠くまで行っていないみたいにも感じられたし、反対にとんでもない距離をずっと歩き続けているようにも思えた。
 やがて私たちは立ち止まる。すぐに目元の圧迫感が消え、うっすらとした橙色の灯りが視界ににじんだ。
 両眼が闇になれてしまったのと、しばらくのあいだ両目蓋を触れられていたせいだろう。初めは目に映るものが全てぼやけて見えた。けれども何度か瞬きを繰り返していくうちに、辺りの景色が次第にはっきりとしてくる。そうして視界がすっかり明瞭になると、眼前に新しい絵が現れた。

 今度は西洋の甲冑を纏った男の人の絵だった。彼はどこかの部屋にいて、背凭れのない椅子に座っている。その傍には大振りの槍を傍に立て掛けてあった。どうやら彼は騎士で、闘いか練習かの合間に休んでいるようだ。けれども頼りになりそうな感じはしなかった。あまりにも弱々しかったからだ。
 落ち窪んだ両目が大きく見開かれ、玉のようになって前に突き出ている。その眼差しは何かに怯えているように見える。
 そんな騎士の真正面に服を着た骸骨が立っている。魔法使いみたいな黒色をした裾の長い服だ。その骸骨は男と向かい合いながら、入り口の扉を指差していた。その開け放たれた扉の外には風車のある晴れた丘が描かれている。目に刺さりそうな鮮烈な青空だった。

「名誉の階とその先」

そう男が呟いたのを聞く。ついで彼は額縁の下を指し示す。するとそこに細長いプレートが張ってあって、同じ文句が書いてある。どうやらこれがこの絵の題名であるらしい。

「騎士の名誉は誰かの死と表裏一体だ。勲章をもらったら、もらった分だけ罪が積もることになる」
「でもそれが騎士の仕事なんでしょう?」
「まあね。でも、事情を斟酌してくれるのは人間だけだ。そして赦しとは求めて与えられるものではけしてない。そういうものだ」

 そういうものなのか、と私は言う。そういうものだ、と男は答えた。赦されないということがどういうことなのか、またそれが何を意味しているのかこの時の私には理解できなかった。けれどしだいに私は絵の中の騎士が可哀想になってきた。

 気がつくと私は男の手を握っている。まるでホットミルクにつけたみたいに、彼の手のひらはほのかに温かかった。ぬくもりをしみじみと感じいっていると、ふと、彼ががまだ名前すら知らない人だというのを思い出した。失礼なことをしてしまったと私は絡んだ指をほどこうとするけれど、相手が強く握り返してくるので離れない。結局そのまま、また私たちは通路を歩き始める。

 この場所には様々な絵があった。絵の中には若い人がいて、年をとった人がいた。大人や子どもがいたし、男も女もいた。生活があり、踊りがあり、病があり、戦争があり、飢えがあり、死があった。そしてどれもやはり沈み込んでいくような暗い印象だった。解説を交えながら、ときどき私たちはさまざまな話をする。

「火気厳禁? 電池式だから大丈夫だよ。ほら、柄のここにスイッチがついてるでしょ」

 そうしているうちに私たちはとうとう最後の絵の前まで来た。それは教会の壁くらいある、すごく大きな絵だった。
 ワルツだろうか。タキシードとも軍服ともつかない服を着た男の人と、ドレスを纏った女の人が二組になって手を繋いで広場で踊っている。踊っていると断言できるのは、ジャケットやドレスの裾を翻す彼ら彼女らの後ろでオーケストラがいるのが見えたからだ。どうやら舞踏会の様子を描いている絵らしい。額縁の下にあるプレートには『グリゴリの結婚』と題名が書いてある。

【続く】

後編です


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高野優
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