私、演歌の味方です
リスボンで聴いたファドは味わい深いものでした。それを聴きつつ演歌を思ったのは、両者には通底するものがある、と感じたからです。
さて、ならば演歌は好きかと誰かに問われたなら、筆者は「好きだが、多くの演歌は嫌い」というふうに答えるでしょう。
嫌いというのは、積極的に嫌いというよりも、いわば「無関心である」ということです。演歌はあまり聴くほうではありません。聴きもしないのに嫌いにはなれません。
ところが、帰国した際に行合うカラオケの場では、どちらかと言えば演歌を多く歌います。なので、「じゃ、演歌好きじゃん」と言われても返す言葉はありません。
演歌に接するときの筆者の気持ちは複雑で態度はいつも煮え切らない。その屈折した心理は、かつてシャンソンの淡谷のり子とその仲間が唱えた、演歌見下し論にも似た心象風景のようです。
淡谷のり子ほかの歌手が戦後、演歌の歌唱技術が西洋音楽のそれではないからといって毛嫌いし、「演歌撲滅運動」まで言い立てたのは行き過ぎでした。
歌は心が全てです。歌唱技術を含むあらゆる方法論は、歌の心を支える道具に過ぎません。演歌の心を無視して技術論のみでこれを否定しようとするのは笑止です。
筆者は演歌も「(自分が感じる)良い歌」は好きです。むしろ大好きです。
しかしそれはロックやジャズやポップスは言うまでもなく、クラシックや島唄や民謡に至るまでの全ての音楽に対する自分の立ち位置です。
筆者はあらゆるジャンルの音楽を聴きます。そこには常に筆者にとってのほんの一握りの面白い歌と膨大な数の退屈な楽曲が存在します。演歌の大半がつまらないのもそういう現実の一環です。
箸にも棒にも掛からない楽曲も少なくない膨大な量の演歌と演歌歌手のうち、数少ない筆者の好みは何かと言えば、先ず鳥羽一郎です。
筆者が演歌を初めてしっかりと聴いたのは、鳥羽一郎が歌う「別れの一本杉」でした。少し大げさに言えば筆者はその体験で演歌に目覚めました。
1992年、NHKが欧州で日本語放送JSTVを開始。それから数年後にJSTVで観た歌番組においてのことでした。
初恋らしい娘の思い出を抱いて上京した男が、寒い空を見上げて娘と故郷を思う。歌は思い出の淡い喜びと同時に悲哀をからめて描破しています。
「別れの一本杉」のメロディーはなんとなく聞き知っていました。タイトルもうろ覚えに分かっていたようです。
それは船村徹作曲、春日八郎が歌う名作ですが、そこで披露された鳥羽一郎の唄いは、完全に「鳥羽節」に昇華していて筆者は軽い衝撃を受けました。
筆者は時間節約のために歌番組を含むJSTVの多くの番組を録画して早回しで見たりします。たまたまその場面も録画していたのでイタリア人の妻に聞かせました。
妻も良い歌だと太鼓判を押しました。以来彼女は、鳥羽一郎という名前はいつまでたっても覚えないのに、彼を「Il Pescatore(ザ漁師)」と呼んで面白がっています。
歌唱中は顔つきから心まで男一匹漁師になりきって、その純朴な心意気であらゆる歌を鳥羽節に染め抜く鳥羽一郎は、われわれ夫婦のアイドルなのです。
筆者は、お、と感じた演歌をよく妻にも聞かせます。
妻と筆者は同い年です。1970年代の終わりに初めてロンドンで出会った際、遠いイタリアと日本生まれながら、思春期には2人とも米英が中心の同じ音楽も聞いて育っていたことを知りました。
そのせいかどうか、筆者と妻は割と似たような音楽を好む傾向があります。共に生きるようになると、妻は日本の歌にも興味を持つようになりました。
妻は演歌に関しては、初めは引くという感じで嫌っていました。その妻が、鳥羽一郎の「別れの一本杉」を聴いて心を惹かれる様子は感慨深いものでした。
筆者の好みでは鳥羽一郎のほかには北国の春 望郷酒場 の千昌夫、雪国 酒よ 酔歌などの吉幾三がいい。
少し若手では、恋の手本 スポットライト 唇スカーレットなどの山内惠介が好みです。
亡くなった歌手では、天才で大御所の美空ひばりと、泣き節の島倉千代子、舟唄の八代亜紀がいい。
筆者は東京ロマンチカの三条正人も好きです。彼の絶叫調の泣き唱法は味わい深い三条節になっていると思います。だが残念ながら妻は、三条の歌声はキモイという意見です。