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「たかがサッカー、されど、たかがサッカー」と笑えない場合もある

2022年W 杯決勝戦を戦ったアルゼンチンとフランスのどちらを応援するか、という世論調査がイタリアで行われました。

そこではおよそ7割がアルゼンチン、2割がフランス、1割は両方あるいはどちらでもない、と回答しました。

いくつかの統計がありましたが、いずれも圧倒的にアルゼンチン支持が多い結果でした。

アルゼンチンにはイタリア移民が多い。

その影響もあるのでしょうが、イタリアのプロサッカーリーグのセリエAでプレーするアルゼンチン人選手も少なくありません。

付け加えれば、アルゼンチンのスーパースター・メッシもイタリア系(祖父)です。メッシという名前もイタリアの姓です。

その統計は、しかし、イタリア人がフランスを好いていないという意味ではないと思います。

なぜなら例えばフランスとドイツが対決したならば、ほぼ間違いなくフランス支持が7割、ドイツ支持が2割というような数字になるからです。

W杯の優勝回数だけを見れば、イタリアとドイツは南米のブラジルとともに世界サッカーのトップご3家を形成します。

イタリアにとってはブラジルもドイツもライバルですが、ブラジルは同じラテン系なのでより親近感を覚えます。

片やドイツはライバルであると同時に、歴史と欧州の先進民主主義国の理念を共有する国としてやはり強い愛着を感じます。

ところがドイツはかつてヒトラーを持った国です。ドイツ国民は必死でヒトラーの悪を清算し謝罪し否定して、国民一丸となって過去を総括・清算しました。結果彼らの罪は大目にみられるようになりました。

だがドイツに対する欧州人の警戒心が全て消えたわけではありません。何かのネジがゆるむとドイツはまたぞろ暴虐の奔流に支配され我を忘れるのではないか、と誰もがそっと憂慮しながら見つめています。

欧州の人々が密かにだが断固として抱えているドイツ人への不信感は、彼らが国際政治の舞台で民主主義の旗手となって前進する今この時でも変わりません。

イタリア国民はW杯で日本がドイツを破ったとき狂喜しまし、た。

彼らが普段から日本びいきという事実に加えて、ドイツがサッカーではライバル、政治的にはナチスの亡霊に囚われた国、としての反感がどうしてもくすぶるからです。

戦争を徹底総括したドイツに反感を持つのなら、それさえしてこなかった日本にはもっと嫌悪感を持ってもいいはずですが、何しろ日本は遠い。直接の脅威とは感じ難いのです。

先の大戦中、日独伊三国同盟で結ばれていたドイツとイタリアは、1943年に仲たがいが決定的になりました。同年10月3日、イタリアはドイツに宣戦布告。

イタリアは開戦後しばらくはナチスと同じ穴のムジナでしたが、途中でナチスの圧迫に苦しむ被害者になっていきました。ドイツ軍によるイタリア国民虐殺事件も多く発生しました。

戦後、イタリアがドイツに対して、ナチスに蹂躙され抑圧された他の欧州諸国と同じ警戒感や不信感を秘めて対することが多いのは、第2次大戦におけるそういういきさつがあるからです。

イタリア人を含めた全てのヨーロッパ人は、ドイツの経済力に感服しています。同時にドイツ以外の全てのヨーロッパ人は、心の奥で常にドイツ人を警戒し監視し続けています。

彼らはヨーロッパという先進文明地域の住人らしく、ドイツ人とむつまじく付き合い、彼らの科学哲学経済その他の分野での高い能力を認め、尊敬し、評価し、喜びます。

しかし、ドイツ人は彼らにとっては同時に、残念ながら未だにナチズムの影をひきずる呪われた国民なのです。

いや、ヨーロッパ人だけではありません。米国や豪州や中南米など、あらゆる西洋文明域またキリスト教圏の人々が、同じ思いをドイツ人に対して秘匿しています。

欧米諸国のほとんどの人々は、前述したようにドイツ国民の戦後の努力を評価し、ナチズムやアウシュヴィッツに代表される彼らの凄惨な過去を許そうとしています。あるいは許しました。

しかし、それは断じて忘れることを意味するのではありません。

「加害者は己の不法行為をすぐに忘れるが被害者は逆に決して忘れない」という理(ことわり)を持ち出すまでもなく、ナチスの犠牲者だった人々はそのことに永遠にこだわります。

それは欧米に住んでみれば誰でも肌身に感じて理解できる、人々の良心の疼きです。「許すが決して忘れない」執念の深さは、忘れっぽいに日本人には中々理解できないことですが―。

既述のようにイタリアは、第2次対戦ではドイツと袂を分かち、あまつさえ敵対してナチスの被害を受けました。だが、初めのうちはナチスと同じ穴のムジナでした。

イタリアにはそのことへの負い目があります。だからイタリア国民は他の欧米諸国民よりもドイツ人を見る目が寛大です。

しかし、ことサッカーに関する限り彼らのやさしい心はどこかに吹き飛びます。

そこに歴史の深い因縁があると気づけば、筆者は自分の口癖である「たかがサッカー。されど、たかがサッカー」などとふざけてばかりもいられないのです。

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