「ちむどんどん」はド~ンと悲しい
NHKの朝のテレビ小説「ちむどんどん」をロンドン発のペイTVで見ています。
ドラマとしては突っ込みどころ満載の欠陥作品と言って良い。え?と思わず目や耳を疑うシーンや展開が多い。
ひっかかる小疵が多すぎるばかりではなく、致命的と呼んでもいい欠点も幾つかあります。
なんといっても主人公、暢子の兄であるニーニーの人物像がひどい。バカのように描かれていますが、彼は実はバカではありません。
ドラマで描かれるバカは、演出が確かならバカなりに視聴者はその存在を信じることができます。ところがそこで描かれているニーニーは、存在自体が信じられない。
あり得ない人物像だから彼はバカでさえないのです。
ニーニーは「男はつらいよ」の寅さんのパロディーでもあります。しかし完全に空回りしていて目を覆いたくなるほどの不出来なキャラクターです。
脚本の杜撰と演出の未熟が負の相乗効果となって、見ている者が恥ずかしくなるようなつらいシーンがこれでもかとばかりに繰り返されます。その展開を許しているプロデューサーの罪も重い。
パロディーはコメディーと同様に作る側は決して笑ってはなりません。作る側が面白がる作品は必ずコケます。
「ちむどんどん」の演出は脚本の軽薄を踏襲して、「どうだニーニーは寅さんみたいな愉快な男だろう、皆笑え」と独り合点で面白がり盛り上がっています。
ニーニーは演出家と等身大の人間ではなく、劇中のつまり架空のアホーな存在に過ぎない。そのように描くから面白い。だから皆笑え、というわけです。
だが劇中でバカを描くなら、演出家自らもバカになって真剣にバカを描かなければ視聴者は納得しません。
「ちむどんどん」では演出家はニーニーより賢い存在で、バカなニーニーを視聴者とともに笑い飛ばそうと企てています。
換言すると演出家はニーニーを愛していないし尊敬もしていない。人間的に自分より下のバカな存在だと見なして、そのバカを上から目線で笑おうとしているだけです。
だから人間としてのニーニーに魂が入らず、作りものの嘘っぱちなキャラクターであり続けています。
怖いことに演出家の姑息な意図はダイレクトに視聴者に伝わります。
視聴者は笑わない。しらける。ニーニーの実存が信じられない。当たり前です。演出家自身が信じていないキャラクターを視聴者が信じられるわけがありません。
「ちむどんどん」の最大の瑕疵は、しかし、実存し得ないニーニーの存在の疎ましさではありません。
沖縄から上京した主人公の暢子が、いつまで経っても沖縄訛りの言葉を話し続けるという設定が最大の錯誤です。
沖縄本島のド田舎、北部の山原で生まれ育った暢子は、料理人になるために東京・銀座のイタリアレストランに就職します。
ところが暢子は、厨房のみならずフロアにも出て客と接触し、言葉使いも厳しくチェックされる環境にいながら、いつまで経っても重い沖縄訛りの言葉を話し続けます。
沖縄の本土復帰50周年を記念するドラマであり、沖縄を殊更に強調する筋立てですから、敢えて主人公に沖縄訛りの言葉をしゃべらせているのでしょう。
だがそれはあり得ない現実です。日本社会は、東京に出た地方出身者が堂々と田舎言葉で押し通せるほど差別のないユートピアではありません。
例えばここイタリアなら、各地方が互いの独自性を誇り、尊重し合うことが当たり前ですから、人々は生まれ育った故郷の訛りや方言をいつでもどこでも堂々と披露しあいます。
お国言葉を隠して、標準イタリア語の発祥地とされるフィレンツェ地方の訛りや、都会のローマあるいはミラノなどのイントネーションに替えようなどとは、誰も夢にも思いません。
多様性と個性と独自性を何よりも重視するのがイタリア社会です。一方日本は、その対極にある画一主義社会でありムラ共同体です。異端の田舎言葉は排斥されます。
地方出身者の誰もが堂々とお国言葉を話せるならば、日本社会はもっと風通しの良い気楽な場所になっていたことでしょう。
だが実際には地方出身の人間は、田舎言葉を恥じ、それに劣等感を感じつつ生きることを余儀なくされます。なるべく早く田舎訛りを直し、或いは秘匿して共通語で話すことを強いられます。
共通語で話せ、と実際に誰かに言われなくても、田舎者はそうするように無言の、そして強力な同調圧力をかけられます。
日本には全国に楽しい、美しい、愛すべき田舎言葉があふれています。しかし一旦東京に出ると、田舎言葉は貶められ、バカにされ、否定されます。
多様性と個性と‘違い’が尊重されるどころか、軽侮されるのが当たり前の全体主義社会が日本です。言わずと知れた日本国最大最悪の泣き所のひとつです。
そんな重大な日本社会の問題を無視し、あるいは独りよがりに暢子は問題を超越しているとでも決めつけているのか、彼女がいつまでも地方言葉を話し続けるのは、手ひどい現実の歪曲です。
その設定は、ニーニーの杜撰な人物造形法のさらに上を行くほどの巨大な過失、とさえ筆者の目には映ります。