無意識の差別大国ニッポンを憂う
パリ5輪で金メダルに輝いたイタリア女子バレーボールのスーパースター、パオラ・エゴヌの両親はナイジェリア人移民です。エゴヌ自身はイタリア生まれのイタリア育ち。れっきとしたイタリア人です。
ところが彼女は、肌の色が黒いことを理由に「お前は本当にイタリア人か」とSNS上などで侮辱され続けてきました。
彼女は人種差別に抗議してあらゆる機会を捉えて声を挙げ、一度はイタリアナショナルチームを離脱する意思表示さえしました。
過去のエゴヌの闘いは徐々に功を奏して、金メダル獲得の翌日には、MVPにまでなった彼女の活躍を称賛するストリートアートがローマの建物の壁に描かれました。
ところがその絵は、ネトウヨヘイト系とおぼしき人種差別主義者の手によって人物の肌の色が白く塗り替えられ、これがイタリア人だ、との落書きも付け加えられて社会問題になりました。
端的に言っておかなければなりません。
イタリアは、ロシアを含む東欧を除いた欧州の、いわゆる西欧先進国の中では人種差別意識がやや強い国の一つです。
自国を代表して活躍する有名なスポーツ選手を、差別意識からあからさまに侮辱したエゴヌ選手のようなエピソードは、例えば英独仏をはじめとする❝西側欧州❞の先進国ではもはや考えられない事態です。
❝西側欧州❞の国々に人種差別がない、という意味では断じてありません。そこにも差別はあり差別ゆえの事件や争いや摩擦も絶えません。
だが同時にイタリアを含む❝西側欧州❞の国々は、たゆまない人権向上への戦いを続けて、有能な有色人種の国民を真に自国民と見做すのが当たり前、という地点にまでたどり着いてはいます。
移民などの一般の有色人種への偏見差別は依然として強いものの、突出した能力を持つアフリカ中東またアジア系の人々は各界で多く活躍しています。その最たるものが英国初の有色人種トップとなったインド系のスナク前首相であり、パキスタン系のカーン・ロンドン市長などです。
スポーツ界に目を向ければ、フランスサッカーのエムバペを筆頭に、アフリカ系ほかの多くの有色人種の選手が、それぞれの国を代表して戦い「白人の」同胞にも愛され尊敬されています。
そこでは、どの国にも存在するネトウヨヘイト系差別排外主義の白痴族が、隙あらば攻撃しようと執拗にうごめきますが、「欧州の良心」に目覚めた人々の力によって彼らの横暴はある程度抑え込まれています。
イタリアもその例に洩れません。そうではあるのですが、しかし、かつての自由都市国家メンタリティーが担保する多様性重視の強い風潮がある同国では、極論者の存在権も認めようとするモメンタムが働きます。
そして残念ながら、エゴヌ選手を否定侮辱するネトウヨヘイト系の狐憑きたちも、その存在が認められる極論者の一なのです。
そうしたイタリア社会独特のパラダイムに加えて、国民の、特にイタリア人男性のいわば幼稚な精神性も影響力が大きい。いつまでたってもマンマ(おっかさん)から独立できない彼らは、子供に似て克己心が弱く、思ったことをすぐに口に出してしまう傾向があります。
成熟した欧州の文明国とは思えないようなエゴヌ選手へのあからさまな罵詈雑言は、そうした精神性にもルーツの一端があります。
実際のところ差別主義者のイタリア人は、差別主義者の英独仏ほかの国民とちょうど同じ数だけいるに過ぎないのですが、彼らが子供のように無邪気に差別心を吐露する分、数が多いように見えてしまう点は指摘しておきたいと思います。
さて
そうしたイタリアの人種差別を憂う時、実は筆者は常に日本の人種差別意識の重症を考え続けています。
そのことについて話を進める前に、先ず結論を言っておきます。
日本の人種差別はイタリアのそれよりも深刻です。人種差別を意識していない国民が多いからです。そして無自覚の人種差別は意図的なそれよりもはるかに質(たち)が悪い。なぜでしょうか。
差別が意識されない社会では、差別が存在しないことになり、被差別者が幾ら声を上げても差別は永遠に解消されません。差別をする側には「差別が存在しない」からです。存在しないものは無くしようがありません。
一方、差別が認識されている社会では、被差別者や第三者の人々が差別をするな、と声を挙げ闘い続ければ、たとえ差別をする側のさらなる抑圧や強権支配があったとしても、いつかその差別が是正される可能性があります。なぜなら、何はともあれ差別はそこにある、と誰もが認めているからです。
その意味でも、人種差別の存在に気づかない国民が多い日本は、極めて危険だと言わざるを得ません。
大半の日本人は自らが人種差別主義者であることに気づいていません。それどころか、人種差別とは何であるかということさえ理解していない場合が多いように見えます。
それはほとんどの日本人の生活圏の中に外国人や移民がいないことが原因です。ひとことで言えば、日本人は外国人や移民と付き合うことに慣れていないのです。
それでいながら、あるいはそれゆえに日本には、移民また外国人に対してひどく寛大であるかのような文化が生まれつつあります。主にテレビやネット上に現れる外国人や移民タレントの多さがそれを物語ります。
日本のテレビ番組の旅番組やバラエティショーなどでは、あらゆる国からやってきた白人や黒人に始まる「外国人」が出演するケースが目立ちます。それらはあたかも日本人の平等意識から来る好ましい情景のように見えます。
だがそれらの「外国人」を起用する制作者やスポンサー、またその番組を観る視聴者に外国人への差別心がないとはとうてい考えられません。それは秘匿されて意識されないだけの話です。
先に触れたように国民が日常的に外国人と接触する機会は日本ではまだ少ない。人々がテレビ番組やネット上で目にし接する外国人は、現実ではなくバーチャル世界の住人です。視聴者は彼らに対してはいくらでも寛大になれます。
視聴者1人ひとりの生活圏内で実際に接触する移民や外国人が増えたときに、彼らと対等に付き合えるということが真の受け入れであり差別をしないということです。それは今の日本では実証できません。
いや、むしろ逆に、差別をする者が多いと実証されています。中国朝鮮系の人々や日系ブラジル人などが多く住む地域での、地元民との摩擦や混乱やいざこざの多さを見ればそれが分かります。
テレビ番組の視聴者つまり日本国民は、出演している特にアメリカ系が多い白人や黒人を、自らと完全に同等の人間であり隣人だとは思っていません。
かれらは飽くまでも「ガイジン」であって日本人と寸分違わない感情や考えを持つ者ではありません。言葉を替えれば徹頭徹尾の「客人」であって自らの「隣人」ではない、と意識的にもまた無意識下でも考えています。
そのこと自体が差別であり、その意識から派生する不快な多くの事象もまた大いなる差別です。もっともそれらのガイジンは、バーチャル世界からこちら側に現実移動してこない限り、視聴者と摩擦を起こすことはありません。
従って差別意識から派生する「不快な多くの事象」も今のところ多くは発生していません。それらの事実も、あたかも日本には人種差別がないかのような錯覚を助長します。
差別はほとんどの場合他者を自らよりも劣る存在、とみなすことです。ところがに日本にはその逆の心情に基づく差別も歴然として存在し、しかも社会の重要な構成部分になっています。
それが白人種への劣等感ゆえに生まれる、欧米人への行き過ぎた親切心です。彼らを見上げる裏返しの差別は、他者を見下す差別に負けるとも劣らない深刻な心の病です。
日本のテレビには白人の大学教授や白人のテレビプロデュサー、果てはネトウヨヘイト系差別主義者以外の何物でもない白人の弁護士などが大きな顔でのさばっています。その光景は顔をそむけたくなるくらいに醜い。
日本人は対等を装うにしろ見下しまた見上げるにしろ、それらのタレントを決して自らと同じ人間とは見なしていません。かれらはどこまで行っても「白人の異人」であり「黒人のまたアジア人の異人」です。断じて現実の「隣人」ではないのです。
ところが
上に見、下に見つつ深層心理では徹底して外国人を避ける日本人の奇怪で危険な人種差別意識を指摘した上で、実は筆者はまた次のような矛盾した正反対の感慨も抱かずにはいられません。
人が人種差別にからめとられるのは、その人が差別している対象を知らないからです。そして「知らないこと」とは要するに、差別している人物が身に纏ってその人となりを形作っている独特の文化のことです。
文化とは国や地域や民族から派生する、言語や習慣や知恵や哲学や教養や美術や祭礼等々の精神活動と生活全般のことです。
それは一つ一つが特殊なものであり、多くの場合は閉鎖的でもあり、時にはその文化圏外の人間には理解不可能な「化け物」ようなものでさえあります。
文化がなぜ化け物なのかというと、文化がその文化を共有する人々以外の人間にとっては、異(い)なるものであり、不可解なものであり、時には怖いものでさえあるからです。
そして人がある一つの文化を怖いと感じるのは、その人が対象になっている文化を知らないか、理解しようとしないか、あるいは理解できないからです。だから文化は容易に偏見や差別を呼び、その温床にもなります。
差別は、差別者が被差別者と近づきになり、かれらが身に纏っている文化を知ることで解消されます。文化を知ることで恐怖心が無くなり、従って差別心も徐々になくなっていくのです。
(差別している)他者を知るのに手っ取り早い方法は、対象者と物理的に近づきになることです。実際に近づき知り合いになれば、その人のことが理解できます。自分と同じく喜怒哀楽に翻弄され家族を愛し人生を懸命に生きている「普通の人」だと分かる。そうやって差別解消への第一歩が踏み出されます。
その意味で日本のテレビやネット上で展開されている「エセ平等主義」の動きは、疑似的とは言えとにもかくにも被差別者つまり移民や外国人との接触を強制するものである分、或いは真の人種差別解消へ向けての重要なポロセスになり得るかもしれない、と思ったりもするのです。
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