「怪物」の怪物的退屈
鳴り物入りで上映が始まった映画「怪物」を、帰伊直前の慌ただしい中で観ました。
退屈そのものの内容に、時間を奪われた思いで少し腹を立てました。
カンヌ映画祭で脚本賞を受賞したのは何かの間違いではないか、と疑う気持ちにさえなりました。
だがしかし、むしろ思わせぶりの内容だからこそ映画祭での受賞となったのだろう、と思い直しました。
映画祭や賞や専門家は、大衆受けするエンタメよりも“ゲージュツ的難解”を備えたような作品を評価したがるものです。
映画の初めは興味津々に進みます。今きわめてホットなテーマ、イジメを深く掘り下げる話と見えたのです。
イジメではないか、と学校にねじ込む女主人公と対応する校長らとのやり取りの場面は、深く面白くなるであろう映画の内容を予感させました。
しかし期待は裏切られます。
イジメられているらしい子供の担任の教師が見せる矛盾や、時間経過と共に― 作者の意図するところとは逆に― 子供たちの存在が軽く且つ鬱陶しさばかりが募っていく展開に食傷しました。
映画の構成は重層的です。イジメとLGBTQと人間の二面性が絡みあって描かれ、謎解きのような魅力も垣間見えます。
時間を遡及する際に、過去のシーンの切り返しの絵を使って退屈感を殺そうとする試みも好ましい。
嵐のシーンの細部の絵作りもリアリティーがあります。
ところがそれらの努力が、全体のストーリー展開のつまらなさ故に全て帳消しとなって、ひたすらあくびを嚙み殺さなければならない時間が過ぎました。一昔前の芸術追従映画を観るようでした。
映画は映画人が、芸術一辺倒のコンセプトでそれを塗り潰して、独りよがりの表現を続けたために凋落しました。
言葉を換えれば、映画エリートによる映画エリートのための映画作りに没頭して、大衆を置き去りにしたことで映画産業は死に体になりました。
それは映画の歴史を作ってきた日仏伊英独で特に顕著でした。その欺瞞から辛うじて距離を置くことができたのは、アメリカのハリウッドだけでした。
映画は一連の娯楽芸術が歩んできた、そして今も歩み続けている歴史の陥穽にすっぽりと落ち込みました。
こういうことです。
映画が初めて世に出たとき、世界の演劇人はそれをせせら笑いました。安い下卑た娯楽で、芸術性は皆無と軽侮しました。
だが間もなく映画はエンタメの世界を席巻し、その芸術性は高く評価されました。
言葉を換えれば、大衆に熱狂的に受け入れられました。だが演劇人は、「劇場こそ真の芸術の場」と独りよがりに言い続け固執して、演劇も劇場も急速に衰退しました。
やがてテレビが台頭しました。すると映画人は、かつての演劇人と同じ轍を踏んでテレビを見下し、我こそは芸術の牙城、と独り合点してエリート主義に走り、大衆から乖離して既述の如く死に体になりました。
そして我が世の春を謳歌していた娯楽の王様テレビは、今やインターネットに脅かされて青息吐息の状況に追いやられようとしています。
それらの歴史の変遷は全て、娯楽芸術が大衆に受け入れられ、やがてそっぽを向かれて行く時間の流れの記録です。
大衆に理解できない娯楽芸術は芸術ではない。それは芸術あるいは創作という名の理論であり論考であり学問であり理屈であり理知また試論の類です。つまり芸術ならぬ「ゲージュツ」なのです。
気難しい創作ゲージュツを理解するには知識や学問や知見や専門情報、またウンチクが要ります。
だが「寅さん」や「スーパーマン」や「ジョーズ」や「ゴッドファーザー」や「7人の侍」等を愛する“大衆”は、そんな重い首木など知りません。
彼らは映画を楽しみに映画館に行くのです。「映画を思考する」ためではありません。大衆に受けるとは、作品の娯楽性、つまりここでは娯楽芸術性のバロメーターが高い、ということです。
「怪物」はそこからは遠い映画です。
映画祭での受賞を喧伝し、作者や出演者の地頭の良さをいかに言い立てても、つまらないものはつまらない。
追い立てられて映画館に走り、裏切られて嘆いても時すでに遅し。支払った入場料はもう返ってきません。
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