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【死んでもいい】そもそも何を選択しようとも、すべてがOK

【わたしはわたしを生きるシリーズ】
「人生何が起きても大丈夫!」
夫の鬱も、娘の不登校も、
わたし自身の強烈な自己否定も。
ぜーんぶ、大丈夫でした!

CT・MRI・内視鏡とか一通りの検査の結果、
婦人科系の状態は
やはり芳しくはなかったみたいで、
摘出も視野に入れることを勧められる。
(確かに、症状として自覚はあり)

ただ、意外だったのは、
数値から見ると、
内臓系のほうが心配とのこと。

それでもまだ「ここが悪い!」
というところはわからなかったみたい。

それも不思議な話だよね。

だからもう少し検査をして、
「“どこが一番悪いのか”を
 特定しないといけない」
「そして治療方針を決めましょう」
という話でした。

なので、わたしは
それまでの検査と診察に
ありがたく深〜く感謝して、
病院からはそのまま
フェードアウトしました。


なぜかというと、例えば
「あ、わたしガンなのかも…」
それを意識したら、
たぶんそのパラレルの
自分を選択してしまっていただろうから。

現時点では、
明らかに悪い箇所が(なぜか)ないけれど、
こういう状況になっているというのは、
ここがひとつ、人生の分岐点だな〜と。

それは直感でわかった。


実際のところ、
数値はかなり高かったのかも。
それがどれくらいのものなのかは
敢えて、自分では調べなかったけど。
情報に引っ張られちゃうので。

ただ、お医者さんの話では、
「子宮も卵巣も、
切ってみないと、良性・悪性わからない」
(それでも切るの〜?)

「悪性ではないかもしれないけど、
明らかに何かの異常はあるかもしれない」
(どっちやね〜ん!)

「同じくらいの数値の方で、
実際にがんの患者さんもいるけど、
治療を続けています」との説明。
(おるんか〜い!)


それでも、わたしは
「ほ〜ほ〜」と華麗にスルー。


すべては自分の魂の選択。


ということは、
言うなれば、その方は
「そのシナリオを選んだんだね」
ということだけであり、

その病気という体験を通じて
もっと深い経験をしようとしている
より勇敢な魂なのでしょう。
リスペクトです!


この出来事が、わたしにとって
"人生が何たるか"を思い出すための
きっかけであったということが
わかってしまえば、
もうなんの問題でもない。

そのあたりは、
ドクタードルフィンの著書
『死と病気は芸術だ!』
詳しく書かれていているから
読んでみると超絶おもしろいと思う!


この一連の流れで
一番びっくりしたのは
わたし自身が、
“死”を、拒絶はしてなかったこと。


「・・でもまぁ、
もしそうなったとしても(死んだら)
それがわたしの魂が
やりたいことなんだよな〜」

とも思ったの。

ドルフィン先生がいつも
「どんな嫌なことでも、
魂が望んだ、やりたいことしか、
人生では起こらない」と言っているから。

注意!
  脳(あたま)で考えることと、
  魂の望みは違うんだってよ〜

 あたまでは
 「死にたくない!」考えても、
 魂は
 「そろそろあっちに戻ろう=死にたい」
と望んでいるということ、ですな。


「・・じゃあ、もう
死んでも、生きても
どっちでもいいや〜」


「たとえば病気を抱えながら、
どこか不完全なところを持ちながら
生きるということも、
人間だからこそできることやね〜」
とも思ったし。

「健康に生きないといけない」という
執着がなくなって、それ以降、
いろんなことがどうでもよくなった。


「死んでもいいや」と思えたこと。
それが一番の収穫だったね。
で、それが
パラレルが変わった瞬間だろうな。


「死んだとしても
それはそれでいいや」と思ったことで、

すべてを受け入れる覚悟ができて、
すべてを肯定することができて、

それ以来、
意味のない不安が消えてしまったから。


普通に頭で考えると、
どうしても感情があるし、

「痛いのはいやだな〜」
「死んだら家族と会えなくなって寂しいな」
「家族が悲しむだろうな〜」とか、
いろいろ出てくるけどね。


「あたまではこう考えるけど、
魂の望みはどうなんだろう?」

って、そういう意識を持てると
ちょっとずつおもしろくなるかも。


「生命というのは、
本質は振動螺旋エネルギーであるから、
たとえ、身体がなくなっても
自分がなくなることではない」

「人生で起こることは、
すべて、どんなことでも
自分の魂が望んだこと!」

それをただただ受け入れると、
見える世界がだんだん変わってきますぞ。


そのことに気づかせてくれた
今回の体調不良に
【愛と感謝】を贈ります。


つづく。


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