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【どっちでもよい】 偏ってみて初めて辿り着く場所

【わたしはわたしを生きるシリーズ】
「人生何が起きても大丈夫!」
夫の鬱も、娘の不登校も、
わたし自身の強烈な自己否定も。
ぜ〜んぶ大丈夫でした♡


「どっちでもよい」話。

ふとしたときに、
ちょっとだけ、高次の自分の
魂の意識にフォーカスをしてみる。

そして、今世、地球に送った
【さとみこ】という、ゆるキャラを
愛おしく見つめてみると…

「…コイツぁ、我ながら
結構偏っているし、
かなり極端なキャラだぜ(笑)」


家族からすると、
「何を今さら⁈」みたい。
わたしにとっては
それがデフォルトだから、
普段は意識もしていないし、
全然普通なのだけど。

何かについて
「それ良いね!」と思うと、
もう、それしか見えなくなって、
思考も行動も、
それを軸にして、かなり偏る。


例えば、食事についてなら、
食材や作り方、食べ方などについても、
いろいろとこだわってきた。

そして、一周まわって、
今は、
まったく!こだわらない。

砂糖も、冷凍食品も、
電子レンジも、外食も…
なんでもあり!よ。

その反動ぶりが、我ながら、
別人かと思うくらい、
なかなかの極端さ。
(以前は、自分の中では全部禁止してた)


他にも、たとえば、
健康について、
幸せについて、
お金について…
例えをあげるといろいろありすぎる。


要は、
振子のようなものだと思う。

まずは、
「良い」と思うものに
ものすご〜くこだわる(執着する)方へと、
思い切り振り切る!

そして、
いくところまでいくと
今度は、自然と
反対の方向へ。

今度は、
全くこだわらない(執着しない)ほうに
思い切り振り切る!


どちらも両極端をやってみることで、
初めて、中庸になる。

そうすると、
こだわっても、こだわらなくても、
「どっちでもよい」になる。

こだわるのもよし。
こだわないのもよし。


わたしのイメージとしては、
それで、ひとつ
意識のステージが上がる感じ。
上昇は螺旋状に。

だから、一度は両極端に
とことんこだわることは必要なのね。
(あくまで、わたしにとって)


そして大事なことは、

他の誰かが言っている
良い・悪いを基準にしての
どっちでもよいではなく、

自分が心地よいと感じる上で
「どっちでもよい」を
受け入れること、だと思う。

手間暇かけて、
丁寧な食事の時間を持つこともよし、
出来合いのお弁当や、
インスタント食品を食べることもよし。

自分が決めれば、
それでよい、のよ。

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