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かつて14歳だった迷える子羊たちへ

自己肯定感が低い人に
自己肯定感を持てという言葉は
刃である。

自己価値を低く見積り過ぎている誤った自己認識を正し、
自分を知ること、見つめることから、
本当の自己肯定は始まる。

そして、何より大切なのは
自己肯定ではない。

自分を取り巻く全てに対する肯定、
つまり世界肯定である。

世界肯定とは何か

「人間は所詮このようなものだ」
「世界というのは結局こういうものだ」

という、一見すると、諦め。

自分は世界から切り離された
存在であるという空虚感、
世間や世界に対する
痛烈なる目線(=つまりそれは自身に対する厳しく鋭い、
辛辣な目線にもなる)、そういう世界の捉え方、

それさえも

「世界は不条理で成り立っている」
「不条理で汚物に塗れた世界に生かされている自分、
それを自覚しながらも、のうのうと生きている惨めな自分」

を肯定している世界を肯定する精神である。

こんな世界に生きている自分は
その「こんな世界」に生かされているのだということ。

世界肯定が出来れば、
世界に内包されている自身も肯定できるようになるのではないか?


Q.どうやって世界を肯定できるのか?

A. 今見えている現象、つまり世界において、
今、自分は生かされているのだと知る。

生命体として、今存在できていること、
これは奇跡の事態で、あり得ないギフトで、
私たちが
いくら激しく怒ったり
わめき散らかしたり
誰かを傷つけても、
それでもなお、
どういう訳か生かされており、
図々しく鼓動は波打っている。


自分というモノの実態とは何なのか
自分が生きているこの世界とは何なのか
この世界は今、本当に存在しているのか

物事を突き詰め、考えていけば
とにかく分からないことだらけ

なぜ生まれたのか
なぜ世界はあるのか

これに対する理由を知るものはいない。
あるのは、それらしい説しかない。

人類は進化をしたと言われていようが、
どれだけ科学が進歩しようが、
未だ解明できていない謎である。


そもそも
それを、私たちが知る必要があるのか、
というところに立ち返る必要がある。

何をどんな風にこねくり回して考えても

今、私は生きている(と感じている)
今、私は世界に存在している(と感じている)

そこに明確な解はない。


自身の存在感覚をより自分ごととして、
リアルに感じるにはどうしたら良いのか


「なんとなく」ではあるものの
体感覚として感じてみたのならば
どうだろうか

あなたにとって、生きているを実感できることを
ぜひ考えてみてほしい。


それをすることによって、

自分を包んでくれている存在、
それらに対しての感謝が
生まれてくるのではないか?

空気、両親や友だちといった人々、
住居、街、森、ビル、雲、空、、、


不条理で汚いものがあれど、
それも含めた世界に自分が
生かされているならば、

それを認めて、受け入れて
その中で、自分だけは汚されまいと
泥水の中でも必死に光り輝いて
泥を跳ね除けていこうと


そんな風に思って
生きていく人間としての
在りかたは
あなたの美意識になる。

そして、それがあなたを守る、
誇り高く永遠性を持った
何かになるのではないか?



最近考えていたことです。

私にとっての生きているの実感は

足の小指をドアの角にぶつけて叫んだこと(きょう)
美味しさを噛み締めながらぬか漬けを食べていたら、
白目むいてるよ、と言われたこと
朝起きて、太陽の焼けつくような日差しを肌で感じたこと
学びの場で、初対面の人たちと分かち合いをできたこと
サウナ入った後の水風呂で、脳みそがギュインとしたこと
疲労困憊して意識失うようにふかふかのベッドにダイブしたこと
他人の死に遭遇したこと
恥ずかしげもなく、人前で大泣きしたこと

…挙げればキリがないから、最後に。

哲学は「死の練習」「死の学び」とソクラテスは説いたらしい。



今日もあたたかいお風呂に入りましょうね♨︎



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