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10年前の日記

2011年
小笠原諸島が世界遺産に登録された年

この年、私は就職が決まり社会人になる前に、今しか行けないかもしれないと思い小笠原諸島へ行った。
初めての一人旅。
ダイビングを1番の目的として向かった。

今から10年前になるが、10年前もmixiで小笠原諸島へ行った日記を書いた。あの頃はかなり気分が高揚していた記憶がある。10年前の日記をもう一度読みたいがもう読めないからもう一度書く。


小笠原諸島への船は混雑そのものだった。
雑魚寝ができる、たしか一番安いチケットだったのだが、与えられた番号が置かれている雑魚寝スペースへ行くと、両隣の知らない人との距離はわずか20㎝程しかない、寝返りがうてないスペースしかなかった。
小笠原諸島への旅の記憶を思い返すと、初めはいつもこのことを思い出す。世界遺産に登録された年だったことも影響していると思う。

旅の前半はダイビングばかり楽しんだ。
透明度20m超の海を初めて体感し、ただ驚いた。

泊まった宿で、一緒に泊まった人達といろんな話をしたが内容を全く思い出せない。
多分初対面の人に慣れておらず、上手く話せていなかったからだと思う。
今は少しましになっていると信じたい。

何日目かに父島から母島へ行った。
行く前に居酒屋か宿で
「母島へ行く船はゲロ船だ」
と聞かされていたが、私はこれまで乗り物酔いをしたことがなかったため(幼い頃、中耳炎の治療に通い平衡感覚が少し鈍くなり乗り物酔いしにくいと言われたこともあり)酔わない自信があった。

が、この時は違った。
思う存分酔って吐いた。何回か吐いた。私以外にも吐いている人が何人かいた。トイレで並ぶくらいだった。

吐いている時に思い出した。船に乗ってすぐに雑魚寝する人を。そんなに眠いのかと思っていたが、あれは酔わないための手段だったのだ。
酔いそうと思った時にはもう寝られない。
それで私は吐いた。一睡もできなかった。
酔う前に寝なければならない。そう学んだ。

海が濃い青だったのを覚えている。
初めて買ったコンパクトデジタルカメラで撮ったのだが、通常のモードでは自分の見ている色合いにならず、何のモードだったか、コントラストが強くなるモードがありそれで撮った。
青さを伝えたいが故に誇張し過ぎているかもしれない。
けど、青く濃く美しい海であることは間違いない。

母島で滞在中、台風が小笠原諸島を直撃した。
船は1週間に1本であり、帰る予定の船が運行中止となったため、1週間滞在期間が延びることとなった。

宿では自分の他に男性一人と女性一人が泊まっていた。
食事の時間に顔を合わせる毎日。
男性とは部屋も同じでテラスみたいなところで少し話をすることもあった。

外に出られず宿にこもっていたのだが、宿に漫画「北斗の拳」があり全て読んだ。
読み終えてもなお天候は良くならず、SONYのミュージックプレーヤーを聴きながらゴロゴロした。
この時ループして何度も聞いたのは、

cat walk / チャットモンチー

私がいなくなったとしても
誰かに残った思い出は
生き続けるだろうか
そんなことを考えながら

宿で暇すぎて、このままこの島で忘れられていくのではないだろうか、とどうでもいいことばかり考えていた。けどこの曲を聞いて、このまま母島から出られなくてもいいかとも思った。

なかなか天候が回復せず、避難所が開設された日もあった。避難所へ行くと初めは自分一人だったが、後から同じ宿に泊まっていた男性も来た。
宿で毎日顔を合わせていたから、避難所でも一緒になり笑えた。

台風が去り、帰りの船を待つのみとなった。
外に出られてダイビングや海のツアーがいろいろできるようになったが、一人でできるシュノーケリングや島の散策をした。

目的なくただ知らない島を回るのは楽しかった。誰もいない砂浜を見つけ一人でしたシュノーケリングは最高に気持ち良かった。

竹芝に着いた時ほっとしたが、旅が予定より1週間も長くなったことは結局楽しい思い出になった。

竹芝で、母島で同じ宿に泊まっていた女性に会い無事帰れて良かったことを話し合った。

そこで小笠原諸島の旅の記憶は終わる。

数年後
私には沖縄に住む姉がいるのだが、姉から、母島で同じ宿に泊まっていた女性に会ったよ、と連絡があった。

そんなことがあるのか。いや、どうして分かるのか。
小笠原諸島が世界遺産に登録された年であり、台風が直撃して母島の宿から出られなくなった。という話を私は姉にしていたし、姉がその女性から同じような話を聞いたという。
宿での登場人物も同じであり、最後は知っていた名字が一致したから間違いない。

また小笠原諸島へ行きたい。

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