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不調な時こそ、つくって食べる

前回はじめてドキドキしながらnoteを公開した。
読んでくれたひとりの方からメッセージをもらい、その人が自分の夢を教えてくれた。以前からやりとりはしていた人だが、自分のやってみたいことを改めて話すという機会は、ありそうで意外とないような気がする。あくまで私の人間関係の中では。けれど自分が放った言葉を読んで、それによって夢を教えてもらえたというその現象を受けて、口に出さなければ何も起こらなかったことが起こったのだと思った。自分が動くこと、何かしら発信することで得られるものがあったことが素直にうれしかった。
そして、だれかの夢を聞くことは、自分までわくわくするのだなということも知った。話を聞いて、楽しそうにしているその人と家族の未来の風景が浮かんだ。

そんなこともあり、もう少し書いてみようと思っている。話すことは苦手だが、書くことはけっこう好きなので。読み返すときっと消したくなるだろうから、なるべく読み返さないほうがいいのかもしれない。自分の考えたこと、書きたいなと思ったことだけをとりあえず素直に書いていこうと思う。



ここ数日調子が悪い。
基本的に調子がいい日とよくない日の割合は、最近では五分五分というところだろうか。これでも以前に比べるとかなり調子のよい日が増えている。今回はちょっと嫌なこともあり、気持ちを持っていかれて落ち込み気味という感じ。

昨日の昼は何もつくる気になれず外食をした。
今日は昨日よりほんの少しだけ調子がよい。けれど今朝は食欲がなく朝食を抜いた。さて、昼をどうするか。少し考えた末、面倒だけど「しっかりつくる」ということにしてみた。


何をつくろうかと考えて浮かんだのが、以前読んだ本で気になっていて、いつかつくってみようかなと思っていたスウェーデンの家庭料理「ヤンソンさんの誘惑」というもの。(じゃがいものグラタン)千切りしたじゃがいもとスライス玉ねぎを炒めたものにアンチョビを散らし、生クリームをかけて焼くという料理。アンチョビなんて買ったことないし、千切りがめんどくさそうだなと思いながらも、こんな時こそ食べてみたいものをつくってみよう、とひとりで小さなチャレンジを決意する。

まずは買い物から。アンチョビが3種類あった。5分くらい悩んで一番高いものを買う。ビン入りで、なたね油を使っていて、一番体によさそうだし一番見た目が好きなものにした。値段よりも欲しいものかどうかを優先した。普段なら絶対買わなそう。じゃがいもや生クリーム、一緒に食べるパンはいつものものを買う。昨日決めた1週間分の献立メモの食材も一緒に買う。今日のスーパーは空いていて助かった。何年も同じスーパーに行っているが、混み時が未だに分からなくて、混んでいるとどっと疲れてしまうのだ。

家に帰り、ひと休みせずにそのままの勢いで料理をはじめた。
じゃがいもを千切りにしてチンして、玉ねぎは入れたくなかったので入れず、生クリームと牛乳を半々にしてみた。パン粉をかけて焼くとのことだったが、チーズもかけて、レシピをかなり無視してつくる。一緒にパンを焼いて、コーヒーを淹れている間に完成した。

アンチョビと生クリームの組み合わせに少し不安を感じながら食べてみる。おいしい。牛乳は入れないほうがよかったかも。ちょっとシャバシャバしていてもう少しコクがほしかったかな?でも生クリームだけだと胃もたれしそうな気もするので、もう少し水分を飛ばすとよかったのかもしれない。おいしかったからまたつくろうと思った。けっこうな量のアンチョビがまだ、ビンの中で待機している。


調子が悪い時はたいてい自己肯定感は下がっている。そんな時に少しがんばって自分だけのために食べたいものをつくってみると「大丈夫かもしれない」という気持ちがじんわり湧いてきて、少し元気になる。つくるのが大変だからと買って済ませた時には得られない感覚だ。私が自分で自分を満たすために覚えたことのひとつ。

「コーピング」という言葉を知ってから、よりこういったことに意識が向くようになった。自分にとってのコーピングが何か知っておくと、底の底まで落ちてしまうということを防げる確率が上がるのが分かってきた。私にとっては、料理をする、こどもの写真を見る、自然の中に身を置くなど。他にもありそうだ。めんどうでリストアップできていなかったが、やはりやっておこうと思う。
料理は特段好きなわけではないのだけれど、おそらく「自分の好きなものを選び、自分のためだけに手を動かし、素材だったものがひとつのおいしい食べ物というカタチになる。更にそれを食べることでおいしいと感じる。」という、たくさんの自分にとっての喜びがそこにあるのだと思う。作業に集中するという意味では、気持ちの切り替えのキッカケにもなっているのかもしれない。

自分で自分の機嫌をとる方法を、自分の中に持っておく。そして私の中でそれは、消費で得られる快楽とは別物だということが前提になっている。消費で得た一瞬の快楽は、気持ちの波を大きく動かすもので、上がった分の下降が待っているが、緩やかな喜びは気持ちを安定させてくれるような気がする。

それと、これはコーピングではないが「落ち込んだ自分」を認めるということも大切にしたい。落ち込んだ状態を必要以上になんとかしようとすることは、落ち込んだ自分を否定しているということになってしまう。
「調子が悪い自分」というただそれだけのことで、善でも悪でもない。今、そういう状態の自分がいるんだなと観察してみるとちょっと楽になる。人よりちょっと不調が多いのも、また自分なのだ。そんなふうにやっと最近思えるようになってきた。


お昼ごはんを食べ終え、食べる前に撮った写真を見ていたらnoteを書きたくなった。元気になっているということだろうか。今日やらなければいけないことからの逃避も少しあるのかもしれない。けれど書いていく中で、それに対する気持ちも少し前向きになりつつあることに気づく。
「書く」ということも、私にとってコーピングのひとつなのだろう。

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