自分ではない何かになりきる
小説を書く時は、一時的に登場人物になりきる。小学生になったり、医者になったり。
「悩みを抱えた男子高校生」になりきった状態で村上春樹の「風の歌を聴け」を読んでみたら、いつもの状態(大人の女性)で読んだ時とは全く印象が変わったのでびっくりした。
何だかあちこちに教訓が散りばめられているような気がするのだ。悩める者がすがるように読んだ時にだけ浮かび上がる教訓。それとも悩める者は、悩みを解決したいと願うあまり、あらゆるものから教訓を読み取ってしまうのか。
「風の歌を聴け」はデビュー作なので、最近のものとは作風がずいぶん違う。「いつもの状態」の私は、ストーリー構成がかっちりしているタイプの村上春樹作品を好む。エピソードのつながりがばらっとしている「風の歌を聴け」は、それほど大事に思っていなかった。
でも「悩みを抱えた男子高校生」になりきったことで、
「村上春樹は初期作品が好き」
と言う人の気持ちが少し分かった。
「自分ではない何かになりきる」
なんて、小説を書いたり劇で役を演じたりする時にしかやらない特殊なこと、と思うかもしれない。しかしこれは、
「周囲の人の考えを想像しながら行動する」
という、社会生活を穏やかに送るために必ずやる行為、の応用でしかない。つまり誰でも簡単に出来るはず。
世界をいつもと違った目で見ると、色々発見がある。たまには自分をどこかに置いて、「僕」や「あたし」や「拙者」になってみよう。いつでもどこでもタダでやれる、楽しい遊び。