「草間彌生 わが永遠の魂」展感想
2017年に国立新美術館で開催されていた、草間彌生展の記録です。
最初の部屋にあった「生命は限りもなく、宇宙に燃え上がって行く時」と題された富士山の絵と、次の体育館みたいに大きな部屋いっぱいに飾られた連作「わが永遠の魂」を見ている間、ずーっと涙ぐんでいた。
この人が生き抜いたことに、うわーっとなった感じ。
「幼少期から幻覚や幻聴に悩まされ、水玉や網目模様をモティーフとした絵を描き始めました」
(「ごあいさつ」の文章から引用)
私にも幻覚の症状がある。
私を攻撃してくるような幻ではないので治療したことはないけれど(これが治ってしまったら生きていけない)そっちの世界に意識が行ってしまうと仕事や家事がおろそかになるので、効率的に生きるためには「余分なもの」と言えるだろう。
草間の幻覚は草間を苦しめる内容だったのだと思う。それを「芸術」という形にして幻覚と戦った。彼女が戦いに負けなかった証が、この巨大で色鮮やかな作品群だ。
「心に余分なものが湧いてくる人」
が全員草間彌生のようになれる訳ではない。しかしその「余分」を別の何かにすることで、苦しみを喜びに変えていく方法があるのではないかと思うのだ(私の場合は小説です)
連作「わが永遠の魂」は一つ一つの作品を細かく見ていくのも楽しい。人間の描き方がコミカルで可愛らしく、
「ちびまる子ちゃんに出て来そう」
と言っている人がいた。確かに。
「わたしは漫画家になりたい」
というタイトルの作品もあったりする。
部屋全体を見渡して草間世界を全身で感じると、精神が温泉に浸かるような効果がある。
ぎゅうぎゅうではないにしろ、平日とは思えないほど来場者数は多い。外国からの旅行者も少なくない。みな草間彌生に心惹かれてやって来たのだと思うと嬉しくなる。
「あれが好き!」
と絵を指差しながら語り合う母娘。
「楽しかった!」
と言い合いながら部屋を出る若い男の子2人。
「これで第一部なんでしょ?」
「信じられない!」
と感嘆している人たちが。
うん、見ごたえすごいね。
次の部屋では子供の頃に描いた絵など初期作品が集められている。黒い点々やからみ合う植物など、描こうとしているものは現在と全く変わらない。ただ色彩は薄暗く、本当に必要な表現方法を探している状態だったのだろう。
草間彌生本人のコメントが聞けるというので音声ガイドを借りてみた。
草間が父母への思いを歌にして歌っていて、それが昭和歌謡っぽいメロディーで、そうだよなぁ、これだけポップな作品を作っていても母や伯母たちと同じくらい(昭和はじめの生まれ)なんだよなぁ、と微笑んだ。
ニューヨークに渡った後の作品は一転、草間彌生らしさが消える。アメリカの現代アート展のようだ。この時(1960年代)に草間はポップ・アートやミニマル・アートの手法を取り入れたらしい。
白地に赤の網目を描いた絵画「No.X」はどこか千代紙のような和風の趣きがある。
細江英公(三島由紀夫の写真集「薔薇刑」を撮影した写真家)によるパフォーマンスの記録(カラースライド)も見ることが出来た。
力強いパフォーマーというより、パフォーマンスをしないと(経済的にではなく精神的に)生きていけないか弱い少女が写っている気がした。
日の光が注ぐ明るい展示室に、大きなかぼちゃの立体作品があった。音声ガイドによると、草間は実家の畑でかぼちゃに愛着を抱いた。悲惨でみじめな子供時代、かぼちゃが心を慰めてくれた。かぼちゃに描かれた水玉は、かぼちゃの表面の突起を表しているという。
草間にとって「水玉」とは何なのだろうか。彼女は「水玉を描いたらおしゃれ」と考えて水玉をモティーフにした訳ではないと思う。
おそらく当たり前のように、世界中に水玉が見えていたのだ。彼女が見ている世界をそのまま見ることは出来ない。作品=見えているもの、でもないだろう。
具体的には分からないが、子供時代に水玉は、彼女に「恐怖を与えるもの」として現れたのではないか。
草間のかぼちゃを形取った作品は、心から生じ心を苦しめる水玉(幻覚)と、心の外側にあり心を慰めてくれる愛らしいものが一体化したものだ。
これは大きな救いの形であるように感じた。
彼女は水玉を描くことで水玉と戦い、勝ち続けなければいけない。かぼちゃのような愛らしいものたちが、その戦いを支えている。水玉も気が付けば愛らしくなり、草間の味方となって戦っている。
電飾がちりばめられている鏡張りの部屋「生命の輝きに満ちて」に入るのは本当に楽しい体験だった。
上にも、下にも、横にも、無限に光の粒が広がっている。宇宙に似ているが、心の中にある宇宙の方が近い。
難しいことは考えずに「綺麗~」とつぶやき幸せな気持ちになった。
音声ガイドの最後の詩の朗読から一部引用する。
「死が待ちかまえていても構うものか」
「死よもう私に語りかけないで」
草間彌生は若い頃から何度も自殺未遂を繰り返した。老いた先にある「死」以上に、
「死にたい」
という気持ちが彼女を脅かし続けた。
死に追いかけられている人間が、死を振り払うために歩んだ道。その激しい生。
希死と老衰という二つの死に迫られた現在の草間彌生が放つ閃光は恐ろしく眩しく、美しく、優しい。
自分を生み出した宇宙への畏敬の念を表したいと草間は言う。
あんなにも苦しんだのに、この宇宙や生きることを憎んではいないのだ。
展示場を出たところにある「オブリタレーションルーム」でチケットを見せるとシールがもらえる。これを好きな場所に貼って良いらしい。
私は思わず床の汚れを隠すように貼ってしまって、
「主婦だ」
と思った。
私のように心に「余分なもの」を抱えた人たちが、草間彌生の作品を見て励まされると良いなと思った。
自分なりの変換方法(絵、音楽、言葉など)を見つけて、一緒に生き抜いてゆこうよ。
どこかで私は、あなたの作品を見るかもしれない。