文月悠光「だれに呼ばれて」

 「フリーダ・カーロの遺品 ―石内都、織るように」のパンフレットに載っていた、文月悠光ふづきゆみさんの「だれに呼ばれて」という詩がとても良かった。特に、

 母になりたかったが、
 産み落とす前に生きねばならなかった。


 という部分。フリーダが子供を望みつつ産めなかったことをふまえての2行だと思うのだけれど、それとは全く関係なく、
「ああ、私もそうだったなぁ!」
 と強く思った。

 若い頃はとにかく、
「まともに文章を書けるようになりたい」
 というのが自分の中にある最大の欲望だった。それは別に小説家になりたかったからではなく、自分の内側や外側にあふれるモヤモヤに言葉を与えて少しでも世界の見通しを良くしないと、とてもじゃないけど生きていけないくらい苦しかったからだ。

 母親になることへの憧れがなかったわけじゃない。でもそれどころじゃなかった。まず自分の正気を保てるか、毎日がギリギリの戦いだった。

 私は顔の造り(表情?)がのんきに見えるらしく、あまりそういう綱渡りのような生き方をしているとは思われないらしくて…… 悩んでいるのとも違うしねぇ。
「アル中の母親に悩んでいる」
 とかだったら逆に分かりやすかったのだと思う。でも別に、日本酒の匂いがいつもする母親のことは大好きだったし。どんな時でも味方でいてくれたし。

 私が混乱するのは「普通の人々」と「普通に」接する必要がある時だった。何だか不条理劇に放り込まれたような気分になるから。

 小学生の頃、
「お前は常識がない」
 と言ってきた男子を思いっきり平手打ちしてやったっけねぇ。彼はなかなか鋭かったな(滅茶苦茶ムカついたけどな!)

「〇〇について悩んでいます」
 とはっきり言うことさえ出来ない「モヤモヤ」と格闘していた日々。それをたった2行で言い表すなんて、すごいなぁ。

 そう、そういう力が欲しくて、結局まだ手に入れられてない。昔よりはずいぶんラクになったけれども。