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僕たちは必ず死ぬ、だからこそ遺すもの。 生きた証をどう意識するか。

今日は生死感というか、自分自身の境遇、今、そして未来に向けて、どのような思想を抱き、生きてゆくのか。
そんな僕の価値観を少し書いてみようと思います。

人によっては当たり前ではない出来事を、常に見過ごせない人は苦しく生きづらいもの。


いつも悩み、思い、苦しい生き方を強いられてきた方々にとっての当たり前の出来事などは、普通に生きてきて、普通に生活しているようでは気付けないことは多いと思います。
しかし全ての出来事は、どちらの生き方をしてきた方にとっても、互いに見えない
認識できない気づきなどが存在します。

そのような中で人が生きてゆく過程において
家族、兄弟、親戚、学校、職場、友達、同僚、恋人、その他大勢との関わり合い
これまでの人格形成をしてきた生き様、人、互いを通しての
出来事、経験、思いや、さまざまな影響は、計り知れません。

自分が未熟であった時代、それはいつの時代も未熟なままですが
ただし、その内容や質こそ変化します。
僕自身でも、そのような人格形成的に足らない部分以外でも
良い部分、もっと気づかないといけない部分、
成長しすぎてきた(オーバースキル)部分もたくさん自己認識してきました。

見てきたこと、認識してきたこと、目で見た出来事を見過ごせない、自分に正直でいることの辛さなど、いつも、常に心で捉えるからこそ、ある意味心との戦いの日々を過ごしています。

伝えたいのは、そんな、人それぞれの固有の意思、心の状態、価値観のレベル、人から受けるさまざまな影響、過去の生き様と人間的成長は
他の誰とも違っているということ、そして、それは誰にも理解されない領域があり
それでいて正しいということが、それぞれの基礎なんです。

価値観、共感レベルはその人固有の成長がもたらしさ今その瞬間にだけ
認識できる自分の状態であります。(精神の話で難しいけど・・)

道を選ぶ時も、思考し、時に感覚で、歩むものです。それぞれの価値観、固有の経験から、道を選ぶ感性も人それぞれなのです。

全ては正しいと言える出来事を認識しているか。

誰しも、誰とも代わることのできない避けて通れない出来事は、人生には必ずまっているものです。

近しい人、大切な人、何事にも代え難い環境や好きなものを
手に取り目で見える世界。
今とても幸せだと思える瞬間があったとしても、それはいずれ破綻し、
壊れゆくものです。
誰しも完全に守り抜くことは不可能な世界がこの物質の世界。

だからこそ、今ある幸せだと思える環境や、瞬間を大切にすることは
とても大切なのですが、これを気づかず見過ごすことも普通なのです。

重要なことは、全ての大切なもの、瞬間というものは
全て失われることが前提であるということ。
それは正しいことであり、起きる出来事全ては、正しいことが起きているし
起こりうる、ただそれだけなのです。

だから、その都度の経験する出来事、感情や思いを大切にすることは
人間として当たり前なのだと感じています。

だから抗う事は不可能なんです。 受け入れるしかないのです。

必ずこれら景色も、人も、環境も、何もかも普遍的ではなく、いつしか失われる時が訪れると認識すると、大切に思える何かを見つけることが出来ると僕は思います。

必ず避けて通れな出来事は絶対にやってくる。

普通に生きてきた人、そうでない人生を歩んできた人にとっても、人間全員に平等に与えられているのは、時間と肉体。 
それ以外は、それぞれの生きてきた環境や、意識してきた内面の成長が今を作り出しています。
これって本当に平等な世界の中で、誰一人としてそうでない人はいないと思います。

そして、やってくるのは早い人は若いうちから、そうでない方でも必ず訪れる
避けて通れない出来事、形を変えて誰に対しても必ず絶対にやってくるものです。

その中の一つが身近な人の死ではないかと思います。

僕が不動産投資を始めたきっかけというのも、身近な人の病気によるものでした。
その出来事を避けて通らず、他人事とせず、真正面から受け入れることが求められました。それは、その瞬間、僕の心がそうさせたということです。

人によって、その避けて通れない出来事の形はさまざまですが、
逃げることが出来る人もいれば、そうでない方もいます。

そして逃げても逃げきれない出来事が、変化して訪れるものであります。

僕はそこを認識していたからこそ、小さな出来事でも見て見ぬふりをする事はできないし、認識して無視したふりをすると、必ず何か起きることも
知っています。

過去若い時に、僕は誰しも経験したくない出来事を無数に経験してきた経緯があるからこそ、無視した時に必ず起こる出来事の数々に反省したもの。

そんな経験が、近しい人の病気と、その先に待っていた死によって、
人生観に大きな変化を与えてもらいました。
避けて通らず真正面から受け入れた経緯があり、そう、不動産投資で
自分らしい生き方を築けたのです。(この話は近く記しますね)

避けて通れるものはあっても、決して逃げきれない、避けられない
心からその状況を受け入れ、立ち向かわねばいけない、
そんな時が全ての人には待っています。

いつしか僕も貴方も、みんないなくなる。だから、どう今を感じ歩むか。 心の赴くままの、今思う豊かさを感じる生き方が必要だと感じます。

皆死んでしまう。形あるものは全て失われる。この世はそれが前提である。

僕らは、終わりがある。
これも全ての人に、平等に。
それが前提であり、当たり前の世界。

形あるもの、欲、執着するものも全て長続きはできず、失われる。
それ以上に大切な事は、そのような物質的、利己的な世界のことより
記憶、体験、感覚、感性、直感を大切にした生き方だと強く感じています。

どうせあの世には、何もかも物質的なものは持っていけないからこそ
人として、どう生きたのかを考える事は、これもまた避けられない出来事であります。

生きている時には感じない、考えられない領域は、近しい人の何らかの変化や死を持って強く考える事でしょう。
考えられない人にとっても形を変えてやってくるものでしょう。

そんな宗教的な思想は、決して宗教でも仏教でも神道でもなく
全ての人がいつしか、それぞれに相応しい時に認識するようになっているものだとも感じています。

僕らも背負っています。
誰しも何かの責任や、これから先に起こりうる何かを受け入れる
度量を試される出来事が待っています。

だからこそ、生きる意味や意図、生きた証をどのように経験してゆくのか
それは物質的なものではなく、人間的な成長、経験含めての生き様が
形成されてゆくこと。
これも誰しも平等に与えられた環境だと思います。


作ってきた不動産より、先に屍になる。だから、どんなものを作ってきたのかも、僕の人生の歩み、生きた証なのです。

自分らしく生きること、答えを求めず、意味意図を自分らしく心で描くことは素敵な事だと思います。

今は、そのようなことを思えなくとも、きっと思える出来事が
訪れますから、その時こそ、決して無視をせず、思考より、心に従って受け入れて見てほしいと思います。

それも全て、ご自身の生き様と、生きた証、軌跡となる
固有の物語になると感じています。




さて、今日この内容を記そうと思ったのは
僕が不動産投資を始めるまで、その直後に起こる悲しい出来事に対して
今があることは、過去を無視しなかったからこその出来事を認識してきたから。

熊本に出張した際に、僕らはここから始まったと感じたこと
誰しも背負う世界、無視できない物事が待っているんだろうなと
思ったことからです。

抽象的な表現にはご愛嬌ですが
心と直感感性は別物であり、混同しがちですが
重要なタイミングこそ、直感に従ってきた私たちは
常に心にも正直に生きているからこそ、
直感も感性も磨かれる出来事を経験しています。

そんな部分も知っていただけますと幸いです。

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福岡の元中卒サラリーマン大家「続」不動産投資記録
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