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【画廊探訪 No.147】画用紙に盛りあがる存在の沈黙――『夜の寄る辺』ただあやの展に寄せて―――
画用紙に盛りあがる存在の沈黙
――『夜の寄る辺』 ただのあやの展 (Gallery FACE to FACE)に寄せて―――
襾漫敏彦
ときとして立ち止まり、そこにあらわれる存在に語りかけるように言葉を発する。そのとき、全てが、世界が、孤独が、貴女を抱く。そのとき、この世ならぬ者が呼びかけてくる。そして、イコンは輝きはじめる。薄灯の中で、神のペルソナの如く立ちあらわれるイコンとは、どのようなことを伝えてくるのか。
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ただあやの氏は、白夜の国の童話のような存在を絵にする日本画の作家である。彼女は画用紙に、粒子が微細である岩絵具を用いて厚みを持つ画像を描く。それは、古い土壁に描かれた鏝絵やイコンのようでもあり、クレパスで子供が書きつけた幻の動物のようでもある。それは物を依り代としたあの世からの語らい。この世ならぬ存在は、物に倚りそいながら実在となる。
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ただあやのは、観念を封じた色彩を、岩にもどすように、土に還すように絵を描く。それは、表現の中に潜み続ける語り切れない何かを鎮魂歌を口ずさむように語ろうとしているのかもしれない。
絵は、ときとして、理念と現実を媒介するものである。けれども、絵はつなぎ手である前に、絵には絵の身体に顕れた存在が、実在がある。イコンも、あえなくなった聖人の復活をもとめる行為であり、洞窟の壁画も、肖像画も、過去となる現在を、呼び戻そうとする自分に送り遺す営みであろう。
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絵を描き、詩を綴ることは、私を定義し続ける行為である。それでも、絵に語りかけても、誰に語りかけても、取り零す(こぼす)私が残る。
私は語った言葉でしか、描いた絵でしか理解されない。けれども、いつも伝えきれない何かが残っているのを身体(からだ)が感じる。描きそびれたもの、語りそびれたもの、唄いそこねたもの、勇気のない自分は黙ることで押し殺す。けれども、ただのは、それでも沈黙する存在の声の代わりに、自分の魂の声の代わりに、又、絵を刻むのだろう。
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