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サマリー画廊の楽しみ方ーーなんで画廊に足を運ぶのか【アート・エッセイ】71〜75
第71回
版画の話を続けてきましたが、絵画、ドローイングの話をしていきたいと思います。
絵画というのも、油絵、水彩、ペン画などいろいろあります。また、それぞれの分野でも、ピグメント、色の粉末をどのよいなものに溶かして、いくかで、さまざまに展開していきますし、また、それらの手法が交錯するように使われてもいきます。
絵画が論じられる際、その代表的なものは、西洋絵画における油絵でしょう。ルネサンスを通過して、大きく展開した西洋絵画ですが、基本は、何かを〈写しとる〉ということです。
全ての存在は、イデア界にあるものが、物質に投影されてあらわれているという、形相と質量、イデアと素材をわける考え方がありますが、絵画の世界を考えるとき、わかりやすい構造にも思います。
具材を組み合わせながら、自分の頭の中に浮かび上がった〈イメージ〉を、具現化する。〈イメージ〉は、形にあらわされる前から、現世でなくとも、天界やら象徴界やらに確かにあって、何らかの形で、作家の頭の中に投影されているそういう構図です。
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模写論としては、長谷川宏さんが訳されたジュリアン・ベル『絵とは何か』は参考になります。
第72回
頭の中に浮かんだイメージ、それは、どこかからもたらされたもので、ミューズだったり、神々の住む天上の世界が伝えられたものでしょう。
ボンヤリとした心の中に浮かんだイメージのものを表現したりすることもありますが、やはり、油絵の伝統は、教会や建物をかざる壁画や宗教画からきていると思われます。
儚い現実の世界でなく、神々が住まわれる天上の確固たる世界をうつしとろうとする性格が残っているかもしれません。
自分の内面に写された何かを表していくということでは、表現したいものと、表現されるべきものを対応させていこうとする、預言者のようにイメージを預かるのかもしれません。
絵画の世界では、そのような印象をもつことも少なくないです。
第73回
絵画というものは、瞑想に近しいかもしれません。ひとり静かにたたずむとき、浮かびあがるもの、それをキャンパスにぶつけていく。
ミューズにインスパイアされたにせよ、世界の中で感じる想いをもとにしたにせよ、内面にあらわれたもの、〈心像〉とも〈表象〉ともいえるでしょうが、それを、誰かに伝えるに〈物質〉という共通のものを使うのですが、版画やデジタル以上に、絵を描くということは、直接的な行為です。
だから、限りなく身体性が現れるもののように思いますし、油絵は、特にその肉体感がより強くでているように感じることがあります。
西欧絵画は、ときにマッチョだなと思うこともあります。
第74回
画廊に行って楽しいのは、いろいろな出合いがあることです。最近は、作家と美術学校で同窓だった方が訪ねて来られて、いろいろと語り合いをしました。
彼は漫画家のアシスタントをしているようですが、
現在の潮流として、漫画の作画もタブレットでの製作が主流で、アナログで育った彼としては、どうしても、どこか違和感を感じてしまうと言ってました。
筆の跡に、作者の感情を読みとりたいわたしとしても、気持ちはよくわかりました。
絵画、ドローイングには、描く人の肉体や感情といった身体性が反映していると思います。それが介在物や媒介が挟まるたびに、それが抜け落ちるのかもしれません。
その揺らぎが、大切だと思いますが、むしろ、それを削りたいと思われる作家もいます。
第75回
前回の漫画のアシスタントをされてる方との話のことなので、続きのような話です。
デジタル作画になると、絵を描く熱量を伝えれないという気持ちになるといわれていました。
絵を描くということは、内的世界の想念を伝えようとすることなので、形にできなかった部分を、情熱や想いをのせていく、そういう要素があるのでしょう。
スポーツの世界の一球入魂や、ゴールへ届けこの思い、そんなことにも近いでしょう。
ただ、いくら熱量とはいっても、結局、何が売れるか、認められるかは、関係ないんだとも、彼は言っていました。
作品のもつ迫力、惹きつけて離さない何かは、算定できる評価を超えて確かにあるとは、思います。
どこに、自分とのつながりを捉えるか、それはそれぞれですが、市場や社会の評価と自分にとっての価値はやはりブレがあるので、いいものをいいと、自分の口でいえる勇気も必要だと思います。