表現再考:水始涸
秋分も末候、水始涸、稲刈りに向けて田畑の水を抜く頃です。暦の表現を追い続けてきましたが、自然から遠く引き離たれ続けているのを感じます。
リモート、AI、テイクアウトの注文、自然だけでなく、気がつけば、人からも引き離され始めているのかもしれません。
田から水を抜くひとの苦労を忘れるように、人に会うために足を運ぶことも、意味ないことになりはじめています。
遠くのひとと繋がる良さが、いつしか、家族とも、リモートで話せばいいとなっているのかもしれません。
戦地でひとが、戦禍に巻き込まれることと、戦争に携わっている指導群の生死の如何を議論することが、あたかも同じもののように語られます。
何が人ごとなのか、人々の交わりの水も、そろそろ抜かれはじめているのかもしれません。