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【画廊探訪 No.128】十一本の柱をめぐる十二本目の柱 ――― 大場あゆ個展『深淵からのぞく』に寄せて――
十一本の柱をめぐる十二本目の柱
――― 大場あゆ個展『深淵からのぞく』表参道画廊・WAG2022に寄せて――
襾漫敏彦
蠢きは、認められて渾沌と名付けられていく。形無きものの描写の前に、描写できないものがあった。樹木の陰に現れる妖(あやかし)は、認識と認識以前の狭間に巣喰う。それ故か、多摩の里、羽村の森には、天狗が住むと聞く。
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大場あゆ氏は日本画の作家である。彼女は十一本の四角い柱を、等間隔に隙間を空けて一列に並べて空間的な支持体として、東西南北に向けて絵を描いた。
東方の面は、大場が出会った何ものかの姿を表現してある。そして浄土へ向かう西方の面には、形をなさない泥の沼のように蠢く力の流れが描かれる。地中深くのマグマのように底の底で潜んだ力と、それが吹き出したあらわれの間の南側は、障子の桟のように二つの画像を結び繋げている。そして、形なき形として暗がりが極北を向いて沈黙する。
大場は岩絵具と水干絵具、そして銀箔で描いた。画布となる柱をつくるのに幾度となく胡粉を塗り重ねて、表現のための文体を練りあげていく。永遠の理(ことわり)を求めながら、そこにあるのは時の関数。銀箔は、時とともに酸化し絵具は水を失い剥落がはじまる。理(ことわり)は、変化すること、崩れ落ちることでもある。
学問や哲学は、個物から抽象へ、具体から理念・イデアの世界を目指すものである。けれども、深淵は、個物という具体性を更に深めて具体以前へと延びていく。真の理(ことわり)は、形を見い出すのでなく形を捨てるところから始まるのかもしれない。天狗は、僧侶が堕落して変ずるという説がある。窮理から堕落して天狗となってはじめて森羅万象の悟りに触れるのかもしれない。
十一本の柱に、もう一人が加わって循環を示す十二となる。最後の一本として円環を巡るとき、深淵の先に見るのは、悟りなのか迷いなのか、堕ちてはじめて知るのだろう。
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公式サイトはないので、和光大学のWAG2022での紹介を掲載します。